トレンド&テクノロジー / デジタルコンテンツの未来〜温故知新〜
第20回:佐藤 篤司(CGアニメーター/スーパーバイザー)
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CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はWalt Disney Feature AnimationやWETA DIGITAL LTD、Sony Pictures Imageworksなど世界中の名だたるスタジオでアニメーション・スーパーバイザーやリードアニメーターを務めてきた佐藤 篤司さんに登場していただいた。貴重なキャリアエピソードのほか、さまざまな環境に身を置いたアーティストとして働き方や表現・技術のお話までたっぷりと伺った。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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20代で渡米し、コッポラ監督のもとでCG制作
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):佐藤さんは1964年生まれですけれど、最初にCGに触れたのはいつ頃になりますか?
佐藤 篤司氏(以下、佐藤):高校生の時に観た『トロン』(1982年)が最初でした。映画好きだったのでCGに憧れはありましたが、その時点では仕事にするイメージはまったくなかったですね。実際にCGを使い始めたのは専門学校に入ってからで、通っていた多摩芸術学園のビジュアルデザイン学科に、源田悦夫先生が非常勤講師で来られていたんです。実際にマシンを持ち込んで簡単なペイントツールや画像通信など、手を替え品を替えCGの面白さやコンピューターの使い方を解説してくれました。
多摩芸術学園
1954〜92年に川崎市に存在した多摩美術大学付属の専門学校。映画科・演劇科・デザイン科など、6学科が存在した。
源田悦夫
東海大学助教授を経て1992年九州芸術工科大学教授。03年より九州大学大学院教授。現名誉教授。メディアテクノロジーを基盤とした情報デザインについての企画・制作とともに、メディア芸術・デザイン教育についての研究に従事。CG-ARTS評議員、カリキュラム・テキスト委員会委員長。
野口:卒業後はグラフィックデザインの会社に就職をされたそうですね。
佐藤:はい。源田先生の紹介で、小さなデザイン事務所でアルバイトとして働き始めました。そこは当時のデザイン事務所としては珍しいことに、コンピューターも使っていたんです。昼間はそこでバイトしながら、夜は源田先生の授業を請けるという生活でした。源田先生は東海大学の短大部でCGの学科を立ち上げる準備をされていて、試験的に夜間部で授業をしていたんです(東海大学高輪短期大学部 電気通信工学科 コンピューター・イメージ・デザインコース;現在は東海大学品川キャンパス 情報通信学部)。2年間プラス研究生として1年間残って、自分でプログラム作ったり絵を描いたりしていました。当時、CGを教える機関は日本電子専門学校や青山CGスクール・メロンなどの専門学校に限られ、大学としては初のCG科だったと記憶しています。そのためか学生よりも教授陣の方に熱意があり、教える側も教わる側も手探りで、CG教育という意味でも黎明期だったと思います。何かとお世話になった源田悦夫先生(九州大学)や自分の担当教授であった故・大平智宏先生(武蔵野美術大学)をはじめ、稲陰正彦先生(慶應義塾大学)、内山博子先生(女子美術大学)、この連載記事にも登場した今間俊博先生(東京都立大学)など、その後のCG教育で重要な存在になる方々が集結していました。
野口:どんな映像を作っていたんですか?
佐藤:アニメーションなんてものは当然作れなくて、球体をいくつも作って反射させてみたいな感じの、昔よくあったCGらしいものを。
野口:レンダラーまで書いていたんですか。
佐藤:そうそう。もうスクラッチから。一応そこまでできるようになって、『PIXEL』というパソコン雑誌のCGコンテストみたいなものにエントリーをして、賞をいただいたこともありました。 その後、某アミューズメント機器製作会社に入社し、シミュレーションライド用のCGアニメーションを作りました。当時はリンクスやJCGLといった、オリジナルの3DCGソフトウェアの技術部を持っているような専門のプロダクションでないとCGアニメーションは作れないというのが業界の常識でした。それをTDIエクスプローラーを使用して作っていたので、僕は汎用のツールを使ってアニメーションを作った最初の世代だと思います。

野口:その後、Magic Box社に転職をされましたが、どんなきっかけで?
佐藤:どうしてもアメリカに行きたかったんです。NHKスペシャル『驚異の小宇宙 人体』のプロデューサーしていた伊藤博文さんがニューヨークでHD/CGという会社を始めたというニュースを知り、講演会に行って、出待ちをしてデモリールをお渡ししたんです。
伊藤博文
1954年生まれ。元NHKのプロデューサー。『驚異の小宇宙 人体』で第29回日本テレビ技術賞受賞。ハイビジョン専門のCGプロダクションHD/CG NYを立ち上げた。退局後LAにMagic Boxを設立、ハリウッド映画、テーマパークのCGやVRインスタレーションを制作。帰国後、画像処理系ITベンチャーを共同創業。2022年、ソニーミュージックエンターテイメントと、インカメラXRスタジオを駆使したテレビ&YouTube番組「DeepTV.art」を企画、総合演出。
野口:大胆な行動に出ましたね!
佐藤:伊藤さんは『PIXEL』の授賞式で審査員をされていたので、まったく面識がないわけではなかったんです。そうしたら「今度ロサンゼルスの方でスタジオを作るから、そちらでどうですか」と紹介されたのがMagic Boxでした。
野口:Magic Boxではどんなお仕事を?
佐藤:『GOKU』(発売:パイオニア、1995年)というレーザーアクティブのゲームで、その中に登場するバビロンの空中庭園を3ヶ月かけて1人で作りました。これが試験採用の期間でした。この作品は1993年のSiggraphのElectricTheaterでも上映されました。
レーザーアクティブ
1993年にパイオニアより発売されたインタラクティブ機能を持ったレーザーディスクプレイヤー。LDゲームが遊べたほか、当時の家庭用ゲーム機であるPCエンジンやメガドライブと接続することもできた。また、マルチメディアプレイヤーとしても機能した。高価であったほか、翌年にプレイステーションやセガサターンの発売もあり、僅かな普及に留まった。
野口:当時、Magic Boxには何人くらいのアーティストがいたんですか?
佐藤:僕と渡辺潤さん、他にもアメリカ人スタッフなども含めて5名程度でした。彼は当時リンクスの所属で、この年のSiggraphで彼が作った作品(『Odoro Odoro』)も上映されたんです。授賞式の会場で話をしたら、アメリカでやりたいというので、(伊藤)博文さんに話を通してしばらくして入ってもらいました。
野口:Magic Boxでは他にはどんな仕事を?
佐藤:Magic Boxは受注というよりも企画型のプロダクションで、日本のキャラクターをCG化して海外に売り込むことをしていました。日本の誰もが知る作品のCGモデルを僕らが作って、博文さんがプロモーション・営業をするという。その流れの仕事でフランシス・コッポラ監督の元で仕事をすることになったんです。
野口:ええっ(笑)。どういうことですか?
佐藤:Magic Boxにコッポラさんのスタジオ(American Zoetrope)で仕事していたプロデューサーが出入りしていた縁があって、「コッポラが『ピノキオ』という新作を企画しているから人を貸してほしい」と言われて、僕が派遣されたんです。そのスタジオにはストーリーボードアーティストなど15人くらいのアーティストがいて、その中には元ディズニーのキャラクターデザイナーのトム・エンリケス(Thom Enriquez )さんがいたり、後でわかった事ですがストップモーションのエリック・レイトンが参加していました。エリックは後にディズニーで『ダイナソー』(2000年)の監督をしました。このスタジオには3ヶ月ほど出向していたのですが「ピノキオ」は、さまざまな事情で結局、映画にはならなかったんです。
『ダイナソー』
2000年に公開されたディズニー映画。当時としては珍しく、実写とCGIを合成する撮影手法を執った。全世界で3億4880万ドルの興行収入を記録した。
ディズニースタイルのアニメーションとそこからの脱却
野口:Walt Disney Feature Animationに転職をされたのはその流れですか?
佐藤:そうですね。Magic Boxで博覧会向けのアニメーションを作ったときのデザイナーも元ディズニーの人だったりして、興味が湧いていたときに誘われたんです。ただ、もし「ピノキオ」が走っていたらこちらをやるつもりでした。その時は時間が経っていたので、彼らに連絡することはなく正面からデモリールを送って採用されたという経緯です。それが1995年のことでした。
野口:ディズニーでの働き方はいかがでしたか?
佐藤:一番の違いはやっぱりユニオンですね。労働時間とかペイについての規定もあって、残業するには許可がいるし、勝手に残業すると怒られるんです。そうだと分かってなかった時期に、勝手に残って泊まり込みで仕事していたら怒られたこともありました。日本にいた頃もほとんど会社に住んでるぐらいだったので(笑)。
野口:ディズニーには教育期間というものがあるそうですね。
佐藤:はい。僕が入った頃は5ヶ月間、午前中は毎日トレーニングでデッサンをしていました。僕が入った時期はまだCGをやり始めた時期でしたので、ディズニーに入った人は皆、ミッキーマウスのデッサンをすることになっていました。

野口:それを通じて一度アニメーションの基礎を叩き込むんですね。
佐藤:そうです。CGの教育とアニメーションの教育が並行して行われる形でした。教育部門もありましたが、現役のアーティストがそのまま教えに来ることも多かったです。学校だと考えたらとんでもなく贅沢な環境でした。基本的なバウンシングボール(球体が弾むアニメーション)をCGで作るところから始まり、いわゆるディズニースタイルのアニメーションを分析して描くところまで。ディズニーにいるということは、アニメーターであること以前にディズニーアニメーターであるというスタイルが徹底されるんです。さらに教育プログラム以外に、仕事が始まってからもドローイングやデッサンのクラスが随時あって、そのために仕事を抜けることはむしろ推奨されているんです。
野口:佐藤さんは人形キャラクターだけでなく、クリーチャーも担当されましたね。
佐藤:『ダイナソー』でスーパーバイザー(以下、SV)を務めました。そのときには恐竜のフェイシャルポーズとしてどんなものが必要かをモデラーやリガーに指示するためにスケッチを描きました。話は飛びますが、『ロード・オブ・ザ・リングス』(2001年)でゴラムというキャラクターを動かすときに、最初はモーションキャプチャーが使われたのですが、出来が良くなかったから手付けになったんです。アニメーション畑から来た人はどうしても、ディズニーアニメ的な動きになってしまう。だからリアル系の実写キャラクターをやるときは、頭を切り替える必要があります。基本を学ぶ上ではディズニー的なアニメーションはやっておいた方が良いのですが、あれはあくまでディズニーらしい動きを出すためのもので、そこに固執すると逆にアニメーションの幅があまり広がらなくなってしまいますね。東映動画も最初は『白蛇伝』(1958年)でディズニースタイルのやり方を踏襲しましたよね。
野口:そうでしたね。そこから徐々にいわゆるリミテッドアニメの手法が入ってきて、日本のアニメ独特のスタイルが確立しました。
佐藤:また話が飛びますけど、『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018年)のアニメーションスーパーバイザーのジョシュア・ベヴァリッジが、日本のアニメーション好きで、『スパイダーバース』始めるときに、日本のアニメーションをリファレンスっていうか参考としてアニメーターに見せていたのですが、一番多かったのが『サムライチャンプルー』(2002年)だったんです。彼はあの作品のキャラクターのデザインとかアニメーションとか全体的な絵作りのスタイルが好きだったみたいで、ポージングとか雰囲気にはそのあたりが生かされていると思います。

野口:『スパイダーバース』には日本のアニメのスタイルに則って2コマや3コマ打ちがありますが、そうしたスタイルをアメリカのアニメーション作品でやるのは珍しいことですか?
佐藤:『スパイダーバース』は原則的に2コマ打ちで、動きが早いところだけフルコマです。2コマはそれまでやったことがなかったので、とても勉強になりました。1コマあたりの価値が上がるので、やっていて楽しかったですね。Sony Pictures Imageworksの面白いところはディズニーやピクサー、ドリームワークスとも違って、いろんなスタイルを模索していくところ。デベロップメントの時点でディズニーとは違うものを作る意識があったのだと思います。アニメーション表現も幅が広かったから、そういう意味で面白かったですね。
野口:先ほどの『ダイナソー』や、その他の作品でもSVを担当されました。日本人でこうしたポジションに付いた際に何かご苦労はありましたか?
佐藤:やはり英語力ですね。そもそもSVの仕事は半分くらいがマネジメントなんです。ミーティングの量も多くて、僕も一対一ならある程度は喋れるぐらいの感じにはなってたんですけど、大勢の前で喋るとなると日本語でも大変なのに英語となると……。日本人でSVをした事がある人が少ないのにはそのあたりに理由があるのかもしれません。
野口:チェック日は朝から晩までチェックし続けなくてはいけないから、自分の作業ができないとか。
佐藤:会社ごとやプロジェクトごとに違うんですけど、チーム全体が決まった時間に一箇所に集まってレビューを行ないます。プロダクションが走ってきたら毎日(デイリー)であるし、ディベロップメントの時期は週に2回とかになります。今どきはオンラインで行われたりもします。アニメーター側は20分くらいでノート(注文事項のメモ)をもらって戻って作業するだけなのですが、SVはレビュールームに張り付いて朝から晩まで、代わる代わるチェックを出し続けることになります。食事もそこに届けられてやり続けるので、かなり過酷な作業になります。

野口:SVのポジションとアニメーターのポジションが明確に分かれているということですね。
佐藤:そうですね。その間にリードアニメーターがいます。
野口:日々の問題とか相談はリードがいろいろ面倒見るわけですね。
佐藤:リードも普段はアニメーションの作業をしていて、呼ばれたらアドバイスを出すような立場です。プロジェクトの規模にもよりますが、ハリウッドの場合はアニメーターがいて、その上にリードアニメーターが3〜5人くらいいて、その上にSVやアニメーションディレクターがいるという階層になっています。
野口:1週間に何フレーム分を制作しなければいけないみたいなノルマは有りましたか?
佐藤:ディズニー時代はありました。でもその後はあまり厳密ではなくなりました。というのも、ショットによっては1キャラクターだけのこともあれば、同じ尺でも10人のキャラクターが登場することもありますので、そこを一律に計るのは難しいのです。そのショットがどのくらいかかるかの見積もりを出すのもスーパーバイザーの仕事なんですよ。
野口:ショットを完成させるまでのチェックの回数は決まっていたりしますか?
佐藤:それも厳密ではありません。最初の段階でラフなものを見て方向性を確認しますが、以降はアニメーター次第です。頻繁に見せたい人もいれば、ある程度しっかりした状態になってから見せたい人もいるので。
野口:その頃のキャリアは『ダイナソー』と、『102』(2000年)と?
佐藤:『102』はリードアニメーターで、あとは『サラマンダー』(2002年)もリードです。あとディズニー作品を流すテレビ番組枠があって、『ティンカーベル』(2008年)のCGアニメーション作品がありました。ディズニーキャラクターがCGになった最初の頃だったんじゃないかな。
WETA からSony Pictures、そして白組へ
野口:それからWETAに移籍されましたが、どんなきっかけで?
佐藤:先ほどの『サラマンダー』に外部のビジュアルエフェクトスーパーバイザーとして入っていたジム・ライジェルがWetaに行って、『ロード・オブ・ザ・リング』のチームに入っていたんです。その公開が終わった頃に、彼が僕を推薦してくれて、アイリーン・モラン(WetaのVFXプロデューサー)から連絡がありました。それもディズニーに働いてる時に直接電話が来て、「これから『LotR』の2本目をやるけど興味ありますか?」と。その頃の僕はディズニー6年目ぐらい。とあるフルCG作品が企画されたんですけど、プロダクションに入る直前にキャンセルになって、じゃあWetaでやってみようかなと思って。
野口:その頃のディズニー映画が興行的に苦戦していた時期でしたもんね。
佐藤:そうなんですよ。ちょうどディズニーの低迷時期に入る頃だったんですよね。Wetaに行ったときは『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(2002年)の後半の増強部員として4ヶ月の契約だったんです。一時的に行って、戻るつもりだったんですけど、「次の作品にも残りますか?」とオファーされ続けて、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003年)、『アイ,ロボット』(2004年)、『キングコング』(2005年)など、都合4年間、Weta作品に関わり続けました。

野口:Wetaは泊まれたんですか?
佐藤:その頃はもう泊まろうという意識はありませんでした(笑)。とはいえ、Wetaも残業などはやはりきちんと管理されてたと思います。やっぱり、ディズニーとソニーはハリウッドの大手スタジオなんですよね。その意味でWetaはニュージーランドの独立プロプロダクションですから、かなりワイルドでした。ユニオンはなかったですけど、僕もずっとフリーランス=個人事業主扱いでした。
野口:社員とフリーランスではどんな点が異なりますか?
佐藤:社員には福利厚生がきちんとあって、簡単にクビにはできないんです。フリーランスの場合は、プロジェクトのいつからいつまでという期間で、契約が終わったらそれでおしまい。先ほどの例のように、Wetaは忙しくなる最後の4ヶ月ぐらいのタイミングで人を集めて、一気に完成させる。だからトレーニングする必要がないくらいスキルを持った人ばかりが集められます。海外は環境が整ってるとは言われますが、厳しいところはかなり厳しいですよ。

野口:Wetaの次はSony Pictures Imageworksに。
佐藤:はい。ロサンゼルスのカルバーシティです。最初は『ベオウルフ』(2005年)というフルCGの作品で、『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)とか、あとトム・クルーズの『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014年)。
野口:Sony Pictures Imageworksにはどのくらいいたんですか?
佐藤:ほぼ20年ですね。2014年にロサンゼルスからバンクーバーにスタジオが移転することになったのですが、ついて行かないと会社に残れない状況だったので、僕もバンクーバーへ。その頃に尾上克郎さんから、「『シン・ゴジラ』(2016年)に興味がありますか?」と連絡があってソニーの方に正式に掛け合って、3ヶ月間ほど休職させてもらって、三軒茶屋のウィークリーマンションに住んで作品に携わりました。
野口:どんな作業を担当されたんですか?
佐藤:作業は白組の三軒茶屋スタジオに通い行いましたが、スタジオカラーが作ったプレビズをベースに手を入れていくという仕事でした。アニメーションをしっかりやったのは、蒲田くんの変身するところまでで、あとはプレビズレベルのものを大量に作っていました。結局、1年くらい関わることになり、後半はバンクーバーに戻り、フォローアップ程度の限定的な作業をしていました
野口:日本のプロダクションと仕事をされて、何か違いは感じましたか?
佐藤:驚いたのは最初からしばらくの間、アニメーターが僕と熊本周平くんの二人だけだったことでした。ハリウッドではプリプロにしっかり時間かけて、テストアニメーションである程度スタイルを作ってから決めていくスタイルですね。
野口:『スパイダーバース』のときもかなり時間をかけましたか?
佐藤:1年ぐらいやったんじゃないかな。『ダイナソー』の時はもっとかけて3年ぐらいでした。日本は割とざっくりと入っていくような印象があります。あとは日本の方が監督との距離が近いですね。ハリウッドでは監督に会うことはほとんどありません。『ゴジラ-0.0』の山崎貴監督なんて、隣の席にいますから(笑)。
野口:あと、SVの権限について伺いたいのですが、ハリウッドでは自分の感覚ではSVがOKを出したテイクは9割OKで、監督チェックでひっくり返ることはまずないという理解なのですが、佐藤さんの場合はいかがでしたか?
佐藤:いや、そんなことはなかったですね。SVにそこまでの決定権はありませんでした。自分ではこれが良いと思う方向でアニメーション作っても、監督が「いや、違う」と言えばそれまでです。レビューがもっと頻繁にあればよいのですが、監督レビューは1〜2週間に1回ぐらいしかないから、その間にやったことが無駄になってしまうこともあるので、指示を出すにも注意深くある必要があります。Wetaにいた頃はまだピーター・ジャクソンと話をする機会はありましたが、ハリウッドではなかなか会わなかったですね。もちろん、プロダクションとかプロデューサーによりますし、監督は本当に雇われの場合もありますし。
スペシャリストとしての働き方とトップクラスのジェネラリスト
野口:最近の日本のCGアニメーターのレベルはどんどん上がってきて、以前よりもどんどん海外に行くようになりましたね。
佐藤:そうですね。しかもハリウッドではキャラクターアニメーターの場合、スペシャリストとしての働き方が普通ですから、日本でジェネラリストになるよりも集中して仕事ができて、レベルも上がりやすいと思うんです。一度、日本のキャラクターアニメーションのコンペティションの審査員をやったことがあるんですけど、まだ完成していないにも関わらず「できあがり」として出していた人が多い印象があって。その時に「突き詰められる環境がないのかな」と思ったんです。向こうではたとえ仕事が遅めなアニメーターであっても、望んだものができるまで、良いものができるところまで時間をかけて持っていくけど、日本の場合はいろんな制約があって、そこまでやらずに「これでOK」っていう感じにしてるのが多いのかなとその時は感じました。ただ、全体的に言えばレベルが上がっているのは間違いないですね。

野口:日本だと作画のアニメーションが仕事として成立していて、その環境のなかでCGを目指す人達がCGアニメーターになっている。それに特化して、成長してもらいたいなと思っています。ILMなどではジェネラリストのスペシャルチームがあると聞いたのですが。
佐藤:そういう意味で、世界中のトップアーティストが集まってくるようなジェネラリストのチームはILMにもWetaにもあります。最終的に難しいショットとか、細かいパイプライン内ではできないようなところはジェネラリストのスペシャルチームが担当します。現在仕事をしている白組調布スタジオにも腕ききのジェネラリストがゴロゴロいます。
野口:日本に帰ってきて、今後チームのリーダーになってスタッフを育てようみたいな感覚はありますか?
佐藤:僕はないんですよね。
野口:自分の仕事をしたいみたいな感じ?
佐藤:そうなんですよ。教育方面の誘いはあったんですけどお断りしました。やっぱりアニメーターでやっていくのがいいかなと思って。(『ゴジラ-0.0』の白組)調布スタジオで専業のアニメーターは僕だけなんですよ。あとはジェネラリストとしてアニメーションもこなす方が数名います。ハリウッドとの違いで驚いたのはやっぱり人数の少なさですね。向こうでもエンドロールの短さが話題になりましたもの。そういった興味もあって調布に入ったんです。今まさに、生で体験していて面白がっています。
野口:最後にAIについてはどのように捉えていますか? 特にVFXとはかなり相性が良さそうですが。
佐藤:ある程度仕事でどんどん使われていくとは思います。その分、アニメーターの仕事がある程度減るのは仕方ないかなと。今のところキャラクターアニメーションに関する可能性としては、背景のキャラクターや動物の群れといった、あまりディテールにこだわらないところとか、アニメーターがやりたがらない部分であれば可能なのかなとは思います。希望的観測も含め、ハイエンド映像においてはメインやセカンダリのキャラクターは、やっぱり手でやった方がいいんじゃないかなと思います。しばらくはそうだと思いますが、ゆくゆくはどうなるか。 やっぱり、安く早くという点では圧倒的にAIの方が強いだろうから、上手く棲み分ける必要があるし、協力できるところはしていかないといけないんだろうなとは思います。

佐藤 篤司
さとう あつし:Supervising Animator
1991年に渡米、ロサンゼルスのMagic Box Productionsを経て、1996年にWalt Disney Feature Animationへ移籍。『ダイナソー』(2000)でスーパーバイジング・アニメーター、『102』(2000)、『サラマンダー」(2002)でリード・アニメーターを務める。その後、シニア・アニメーターとしてニュージーランドのWETA DIGITAL LTDへ移籍し、『ロード・オブ・ザ・リング』の2作目(2002)と3作目(2003)に参加。『アイ、ロボット』(2004)でアニメーション・スーパーバイザーに昇格、続いて『キングコング』(2005)では1200ショットに及ぶアニメーションのスーパーバイズを務めた。2006年にSony Pictures Imageworksに移籍。その後、『くもりときどきミートボール』(2009)、『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)、『KPOPガールズ!デーモン・ハンター』(2005)などに参加。
フィルモグラフィー
2000年 『ダイナソー』
2000年 『102』
2002年 『サラマンダー』
2002年 『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』
2003 年 『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』
2004 年 『アイ、ロボット』
2005 年 『キングコング』
2007年 『ベオウルフ』
2007年 『アイ・アム・レジェンド』
2008年 『スピードレーサー』
2009年 『ウォッチメン』
2009年 『くもりときどきミートボール』
2010年 『アリス・イン・ワンダーランド』
2011年 『グリーン・ランタン』
2011年 『スマーフ』
2012年 『アメイジング・スパイダーマン』
2013 年 『オズ はじまりの戦い』
2014年 『アメイジング・スパイダーマン2』
2014年 『オール・ユー・ニード・イズ・キル』
2014 年 『ホビット 決戦のゆくえ』
2016年 『アリス・イン・ワンダーランド 鏡の国のアリス』
2016年 『シンゴジラ』
2017年 『キングスマン:ゴールデン・サークル』
2017年 『スマーフ スマーフェットと秘密の大冒険』
2018年 『MEG ザ・モンスター』
2018年 『スパイダーマン:スパイダーバース』
2019年 『ラブ、デス&ロボット(ラッキー・サーティーン)』
2019年 『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』
2022年 『ジェイコブと海の怪物』
2023年 『マーベルズ』
2024年 『ゴーストバスターズ フローズン・サマー』
2025年 『マインクラフト ザ・ムービー』
2025年 『KPOPガールズ!デーモン・ハンターズ』
2026年 『ゴジラ-0.0』
Supported by Enhanced Endorphin
INTERVIEWER :野口光一(東映アニメーション)
EDIT :日詰明嘉
PHOTO :弘田充
LOCATION :東映アニメーション


