トレンド&テクノロジー / デジタルコンテンツの未来〜温故知新〜
第19回:三池 敏夫(特撮美術監督)

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三池 敏夫 氏

CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はCG・VFX関係者ではなく、実写の特撮で長らく美術監督を務めた三池敏夫さんに登場していただいた。幼少期に『ウルトラマン』と出会い、『仮面ライダー』の洗礼を浴びたTV特撮黄金期世代。そのまま好きなことで生きていこうとド根性で特撮現場の道へ進んだ三池氏。キャリアを積み重ねていくなかではレジェンドとも多く仕事をし、現在は特撮技術と文化を後世に伝えていく資料収集保存活動を行うなど、特撮へ全てを捧げた人生だ。そんな氏の言葉を余すことなく伝える。

【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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TV特撮黄金期を過ごした少年時代

東映アニメーション/野口光一(以下、野口):この連載はふだんCGやVFXにゆかりの深い方に来ていただいているので、三池さんのお話をうかがうにあたり、まずは「特撮美術とは何か?」という質問から始めさせて下さい。

三池敏夫(以下、三池):わかりました。まず、映画における一般的な“美術”というのはセットづくりのことを指すわけですが、作品の世界観をビジュアルで支える役割です。こと特撮においては背景として映る空も山も海もすべてを美術部が1から作り上げることになります。主役となる怪獣や着ぐるみのヒーローについては、先輩の時代は美術部がデザインしていましたが、特撮番組で怪獣キャラクターが主役になると、怪獣デザイン専門のスタッフが参加し、またキャラクター関連すべてを作る怪獣造形部が独立して棲み分けをするようになりました。そこで特撮美術という言葉は先の街などのセットや、戦車や飛行機、軍艦らを扱う部署を指すようになりました。

野口:三池さんが提唱されている特撮の魅力の三本柱である「ミニチュア」、「爆発」、「合成」について、改めて教えていただければと思います。

三池:ミニチュアで作られた風景の中に、その世界観と完璧に縮尺が合った人物が手前などに合成されて配置されているのを見ると、やはり途端にリアリティが増すのが素晴らしいんですよね。合成することで画の魅力が膨らむというか。なので、ミニチュアは単品での価値というよりは、背景や動くもの、爆破や崩しも含めて特撮映画を盛り立てる美術セットとしての存在に子供のころから憧れていました。

三池 敏夫 氏

野口:光線表現は合成の賜物ですよね? 怪獣バトルを考えると「怪獣プロレス」だけでは特撮らしくならなくて、やっぱりビームとか火花を出すとようやく特撮らしい画面になります。

三池:そうですね。西洋のドラゴンは火を吐きますが、ギザギザの稲光を吐くのは日本怪獣独自のキャラクター設定です。現場の画面に光線を上乗せした独特の魅力が加算されてすばらしい演出です。

野口:なるほど。では三池さんのキャリアについて伺っていければと思います。どのように特撮映像制作の道に入られたのでしょうか?

三池:僕らの先輩たちは東京藝術大学、武蔵野美術大学、多摩美術大学、東京造形大学といった藝大や美大から映画の美術部へ入るルートが主流でした。成田亨さん、池谷(仙克)さんはムサビで、大澤(哲三)さんは多摩美ですね。壊し用の建物を作る時に石膏を組んで作るので、普段から扱っている彫刻科の人がアルバイトとして呼ばれていました。他にも怪獣やセット作りのバイトもあって、夜通し働いていたので、飲食店で働くよりも良い稼ぎになったそうです。それが楽しくてそのまま業界入りした先輩がほとんどですね。僕自身は九州大学の工学部だったのですが、映画を作りたいと思ってこの世界に飛び込みました。

(※)成田亨……画家・彫刻家。初期のウルトラマンや怪獣などのデザインで知られる。1950年代から70年代にかけて映画の美術監督としても活躍。2002年没。

野口:どこかで絵の勉強はされていたんですか?

三池:全く自己流ですけどね。アニメブーム以降、背景画や設定集の本が多く出たので、それを見て真似したりしていました。大学では機械工学を学んでいたので、図面だけは即戦力になりましたが、それ以外の知識は現場に入ってからですね。

野口:先ほど、映画を作りたいとのお話がありましたが、子供の頃はどのような作品に影響を受けましたか?

三池:出身は熊本なんですけど、民放はTBS系とフジテレビ系があって、毎週放送される洋画劇場を親と一緒に観ていました。テレビで最初に体験したのは『ウルトラQ』(1966年)、『ウルトラマン』(1966年)、『ウルトラセブン』(1967年)あたり。『ゴジラ』はもっと古くからあったけど、やっぱりハマったのはテレビで観ることができた「ウルトラ」ですね。同じ年にピープロの『マグマ大使』が始まって、東映では『悪魔くん』がスタートし、円谷プロではウルトラと同じ年の秋から『快獣ブースカ』が始まる。そうやって一気に怪獣ものが出たのが5歳のときでした。ウルトラはその後何度も再放送されて、小学校4〜5年のときに深く刻まれました。そんなふうにして怪獣ブームに染まった世代です。

三池 敏夫 氏

野口:『仮面ライダー』はいつからですか?

三池:「ライダー」も10歳ぐらいの頃。『帰ってきたウルトラマン』(1971年)と一緒です。つまり、最初の怪獣ブームと変身ブームと両方の直撃世代です。親は教師だったので、学校の先生ぐらいしか世の中の職業を知らなくて、将来の進路を決めなくてはいけなくなった時に、自分が普通の会社で仕事をしているイメージが沸かなかったんです。そこで、どうせやるなら好きなことをやりたいなと思って、進路指導のときに「特撮業界に入りたい」と言ったところ、そんな前例はないし、そもそも高校の先生は映画業界への入り方すら知らないわけです。それで反対されて、勧められるまま大学に入ることになりました。

野口:それで大学は工学部に。

三池:はい。機械工学です。やっぱりモノづくりが好きだったので、何か作れる仕事がよくて。それで4年生ぐらいになるといよいよ就職活動の時期になるわけですが、大学はしぶしぶ行ったから工学部生がそのまま進むようなメーカーに入る気はさらさらなくて、4年生の時の夏休みに佛田(洋)くんと東京のプロダクションに行って話を聞いてリサーチをしようと、東京に行ってデン・フィルム・エフェクトやヒルマモデルクラフトを訪ねることにしました。当時、「宇宙船」という雑誌に現場取材の記事が載っていたから、作品に携わっている会社名やお名前は頭に入っていたんです。そこで電話帳を見てアポを取って伺って「撮影の現場に入りたいです」という話をしたら、「だったら、やっぱり現場の人に聞きに行かなきゃ」と言われ、東映の平山亨プロデューサーを訪ね、またその紹介で特撮研究所の社長の矢島信男さんに繋いでいただきました。ちょうど『里見八犬伝』(1983年)を太秦で撮影している最中だったので、東京から福岡に帰る途中に京都で新幹線を降りて、見学させていただくことになりました。

(※)佛田洋……三池とともに特撮研究所に入社後、40年以上にわたり映画やヒーロー作品などで特撮監督を務め、2026年放送の『超宇宙刑事ギャバン インフィニティ』にも参加。監督作も多数。現・特撮研究所代表。

(※)デン・フィルム・エフェクト……東宝で光学合成技師を務めていた飯塚定雄らが設立した特殊効果スタジオ。CG登場以前の時代に『ウルトラマン』のスペシウム光線をはじめとした多くの作品でオプチカル合成を担った。

(※)ヒルマモデルクラフト……東宝や円谷プロダクションで模型製作を手掛けてきた比留間伸志が設立した模型制作会社。特撮映画の撮影現場で使う模型から一般販売向けの鉄道模型まで多数。2015年、解散。

三池 敏夫 氏

念願の特撮研究所で美術監督デビュー

野口:今までの話はすべて佛田さんもご一緒に?

三池:はい。同行していました。佛田くんとは熊本で同じ小中学校の出身、中学では美術部でも一緒だったんです。高校は別ですけど、大学でまた一緒になりました。

野口:そんなに小さな頃からのお付き合いだったんですね! それで、京都で矢島さんに会って?

三池:お話を聞いて、撮影中の太秦も見学させてもらいました。でも「こんな仕事はやめたほうがいい」と諭されて(笑)、その後に福岡に帰ってから御礼のハガキを出したのですが返事はなく、翌年の春に大学を卒業し、アテがないまま佛田くんと上京しました。それから日雇いの肉体労働のアルバイト暮らしをしながら矢島さんに週に1回くらい「何かあれば仕事ください」と連絡を続けていたところ、1ヶ月後くらいに初めて小さなお仕事をいただけることになりました。そこでどうにか気に入ってもらえたようで、以来僕は5年間、佛田くんは現在に至るまで40年以上、特撮研究所に所属しつづけることになります。

野口:その最初の仕事というのはどんな内容でしたか?

三池:『宇宙刑事シャイダー』(1984年)の玩具CMでした。ジオラマで山や崖を作って、ドライアイスで蒸気のエフェクトを作って玩具をピアノ線で吊って飛ばすような内容です。映画制作の知識は何もないから、いわゆる雑用です。美術の大澤 (哲三)さんと操演の白熊(栄次)さんの指示で動くのですが、そこでまあまあの及第点をいただけたんだと思います。そのまま劇場用の『シャイダー』と『超電子バイオマン』の撮り足し部分の撮影で使ってもらいました。これも10日間くらいの撮影でした。

三池 敏夫 氏

野口:三池さんの美術監督デビュー作は何になりますか?

三池:『巨獣特捜ジャスピオン』(1985年)です。これは小規模ながら1年間、特撮班を組んでいたのですが、僕らの上司だった藤田泰男さんが別の仕事で現場を抜けたので、「代わりに佛田と三池で回せ」と任せていただけました。ただ、クレジットには載っていません。その後、戦隊シリーズの『光戦隊マスクマン』(1987年)を佛田くんが、当時並行していたメタルヒーローの『超人機メタルダー』を僕が担当することになりました。

野口:正式な美術監督デビューというわけですね。美術部は何人ぐらいいたんですか?

三池:僕と佛田くんとあともう一人。美術部は全部で3人。あと撮影、照明、操演が各3人で12人、プラス監督。東映の特撮は『ジャイアントロボ』(1967年)の時代から15人ぐらいなんです。同じテレビ作品でも『ウルトラマン』だと40〜50人いて、映画だとさらに多い。東宝は円谷英二というスター監督を擁しているので役割分担も細かく分かれていて、層の厚さも一番です。当時から東映作品と東宝作品ではそれくらい現場の人数の差がありました。大映も日活も新東宝もそれぞれ特撮の部署があるんですが、やっぱり東宝ほどの組織はないです。本来はスクリプター(記録)や助監督がいるものなんですけど、研究所は矢島監督が自らスケジュール組むし、キャメラマンの高橋政千さんが記録をするし、出前の注文までやってました(笑)。 他の現場ではありえないほどの少人数でした。逆にだからこそ東映は毎年作り続けられたと言えるかもしれませんね。ウルトラシリーズはレベルの高い作品を生み出しましたが、無理しすぎて3〜4作ごとに中断していましたから。

野口:監督デビューさせるときのルールみたいなものはあるんですか?

三池:本来は助監督から監督に昇進していくのが普通なんですけど、特撮の場合はキャメラマンが特技監督という役職になります。矢島さんも円谷さんもそうだし、円谷プロの高野宏一さん、佐川和夫さんもみんな元はキャメラマンです。 矢島さんは美術や操演からも監督を出したいと言っていて、若手を育成するという意識から、しょっちゅう絵コンテを描けとかアイディアを出せと言われていました。

野口:美術監督になったのは何歳のときでしたか?

三池:25歳です。23歳で上京してきて。

野口:早いですね。

三池:はい、ありがたいことに早くチャンスをもらいました。矢島さんも30代で特撮監督になっている人だから、そこに抵抗はなかったんだと思います。

野口:『首都消失』(1987年)での井上泰幸さんとのお仕事はどんな経緯でしたか?

(※)井上泰幸……特撮美術監督。東宝で多くの作品を手掛ける。代表作に『ゴジラ』シリーズ、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』、『怪獣総進撃』、『日本沈没』、『連合艦隊』など。2012年没。

三池:東映ではテレビ作品しか仕事がないから、井上さんというすごいデザイナーの下で映画を勉強してこいと、矢島さんが話をつけてくれたんです。僕がいない間、佛田くんがテレビ番組の美術をやってくれていたんだけど、翌年は佛田くんが『竹取物語』(1988年)で井上さんの下に行って勉強させてもらっています。井上さんの徹底的にこだわる仕事ぶりは印象に残りました。

野口:三池さんはその後、特撮研究所を退職されたそうですね。

三池:'89年のことでした。東宝の『ガンヘッド』で川北紘一さんが特技監督すると聞きまして。川北さんといえば後に平成ゴジラシリーズで特技監督を担当されますが、これより前に『さよならジュピター』(1984年)でモーションコントロールカメラを使った新しい撮影を採り入れた方でした。矢島監督のテレビ特撮もちょっとパターン化していたので、これは面白い現場になると思って辞めてしまったんです。そのあとフリーで仕事を繋いでいったなかで、大平特殊効果の久米攻さんに気に入ってもらって、助手として黒澤明監督の『まあだだよ』(1993年)の現場に呼んでいただきました。

(※)大平特殊効果……映画制作やコンサートなどで特殊火薬演出や花火制作などを手掛ける企業。『西部警察』、『二百三高地』、『ゴジラ』シリーズなど多数。

野口:そこではどんなお仕事が?

三池:蒸気機関車が出てくるのですが、その蒸気の素材とか、小物撮り的なところです。あとはラストシーンの長回しのスモークに久米さんが呼ばれると、僕も付いていくという形でした。小物撮りのときは監督補の本多猪四郎さんが采配するのですが、ラストシーンはもちろん黒澤監督がお出ましになるわけです。二人の巨匠が並ぶと、もうすごい雰囲気ですよ(笑)。スタッフ周りも空気が張り詰めますし、得難い体験でした。東宝の大プールの裏に特殊美術部の作業場があって、その奥に『まあだだよ』のオープンセットを建てていたんです。村木与四郎さんという黒澤組のデザイナーですから立派なセットが建っていて、時々見に行って勉強させていただいておりました。

特撮の創意工夫とCGの登場

野口:日本と香港の合作『妖獣大戦』(1991年)に入られたのは?

三池:日本の特撮の問題点が気になっていたので、そのころ若手だった自分たちが実権を持ったら変えたいという思いがあったんです。日本ではすごくミニチュアっぽくて、本物に見えないような画を平気で撮っていたり、カメラ目線も不自然だったりして不満でした。樋口真嗣さんに「香港でなら日本ではできないことができる」と誘われて行ったんだけど、企画自体が流動的で、制作途中で主演も監督も変わるという有様でした。僕らが手伝ったフッテージは使われていますが、最初に聞いたものとは違う映画になりました。当初は『老猫』というタイトルでした。

三池 敏夫 氏

野口:その後、樋口さんは平成ガメラシリーズで特技監督として活躍されます。僕の解釈ではミニチュアをリアルに見せようとするためには、スタジオのセットではなく屋外で撮ること、きちんとフォーカスを合わせること、そして爆破できちんとミニチュアを壊すこと。この3点によってリアリティを出すことをされたと思うのですが、いかがでしょうか?

三池:その通りです。あと、セットの中にいるスタッフが見ているような不自然な目線ではなく、屋上なら屋上できちんと視線の意図を考えて撮る。そういうアングルのリアリティや飾りのクオリティを、現実世界を忠実に再現したようなセットにしたいと思って、平成ガメラシリーズでは細かく作っていきました。

野口:あと、『男たちの大和/YAMATO』(2005年)の話を伺いたくて。作品には特別な思いがありましたか?

三池:作品内容というよりは、やっぱり佐藤純彌監督の作品に参加できるという思いのほうが大きかったですね。純彌さんは東映出身ですが、僕らがやってる怪獣とかスーパーヒーロー路線とは違って、重厚な大作映画を何本も手掛けられた巨匠です。この映画も史実に基づくリアル志向の特撮だから、もっと頑張らなきゃと思いましたね。ミニチュアセットにリアルな水は最初から使わない方向で、海は全部CGでやってもらいました。ただ、水柱の表現だけはその場で実際に起こした方が良いということで、テスト撮影を繰り返しました。さまざまな粉末やガスを試した末に、白竜砕石という重たい粉を使うと水の質感が出ることが分かり、それをフィルムで撮影しました。

野口:お仕事が詰まっているなかで、そういった新しい技術の研究開発はいつ行うんですか?

三池:試行錯誤は常にしたいと思っていますが、日本映画はハリウッドほど余裕がないので、大体それまでに培った無難な方法で行うのが定番です。東宝は長年の蓄積があるので、従来の方法を良しとして踏襲しがちです。「YAMATO」の特撮監督は佛田くんで、純彌さんや撮影監督の阪本善尚さんからは、「本当に起きた出来事をミニチュアとわからないように撮影してもらいたい」と言われていたので、先ほどのような水柱を撮るための研究開発の機会が設けられました。

野口:その名の通り、特撮研究所というわけですね。

三池:思いとしては研究所らしくありたいんですけどね(笑)。日本の映画ではハリウッドと違ってリサーチ&ディベロップメントの時間は与えられないのが普通です。例外として、『巨神兵東京に現わる』(2012年)のときは約10分の作品に対して準備が1月半ぐらいあったので、いろいろと試す余裕がありました。それでテンパーガラス(強化ガラス)を割るような壊しや石膏ビルではできないような、火薬無しで粉々に崩れるビルの表現をつくることができました。

野口:『Fukushima50』(2020年)では、特撮・VFX監督と、三池さんにとって最初で最後のVFX監督のクレジットとなっています。

三池:確かに肩書きとしてVFXの文字が入るのは『Fukushima50』が最初で最後なんですが、それまでにも特技監督として入った『大魔神カノン』(2010年)という深夜番組や映画の『ウルトラマンサーガ』(2012年)でもCGとの絡みがありましたから、まったく初めてというわけではないんですよ。この作品でVFXクレジットになったのは、ミニチュアのほうが圧倒的に少なかったからです。時代的にも予算的にも、もう「絶対にミニチュアでなければ嫌だ」とは言えなくて。水素爆発の建物も白組の優秀なスタッフがCGで作ってくれました。白組とは『シン・ゴジラ』(2016年)のときにすごく上手く行って、ここでもいろんな提案をしてもらって、満足できる仕上がりになりました。

野口:お仕事で初めてVFXに触れられた時、三池さんにはどのように映りました?

三池:美術と監督で関わり方が違いますが、CGが出てきたことで現場的にやっぱり楽になるなという印象でした。特に消す技術が素晴らしくて。美術の立場では、昔は見えちゃいけない仕掛けをいかに隠すかが大変で、そのため撮れるアングルも限られていたのですが、デジタルで消せるようになってからはカメラの自由度や可能性が大きく膨らみました。監督という立場では、注文すれば大抵のことが映像化できるので、どんなジャンルの作品にとっても強い味方だと言えます。『ウルトラマンサーガ』の街並みは、延々と続いて見えるようにアナログのミニチュアをデータ化してCGで増やしてもらったんです。すると一気に広大さを表現することができて、CGの使い勝手の良さに感動しました。

失われゆく特撮美術がこれから残っていくために

東映動画スタジオ設立当時のミニチュア(1/25)

野口:三池さんには東映動画スタジオの設立当時のミニチュア(1/25)を2022年に制作していただきました(現在、東映アニメーションミュージアムにて常設展示中)。建物の設計図面からの制作だったかと思いますが、何か苦労されたことはありますか?

三池:25分の1スケールで当時のアニメーション作りの現場を再現したわけですが、かなり細かい作り物が多かったですね。机を並べて原画や背景画を描く部屋、俳優が声を入れる録音スタジオ、フィルムを繋ぐ編集室など部屋がたくさんあって、それぞれ働く人たちの様子を作りこむのは手がかかりました。部屋の間取りは図面が残っていたので、それを元に平面図や外観の図面を引きました。

野口:近年では映画においてもミニチュア撮影がなくなってきたなか、ワークショップを開催されてミニチュアの文化を継承させていこうとする運動をされていますね。

三池:ミニチュアやアナログの手法は今後、消えゆくものになるのは間違いありません。それを何とか残したいという願いで、庵野秀明さん、樋口真嗣さん、尾上克郎さんたちとともに2012年に「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」という展示を開催しました。しかし単に古い資料やミニチュアを残すだけでは技術は伝承できません。そこで実技的なことを実際に見せたり触れてもらうことが大事だということで、福島県の須賀川市に2020年にオープンした「須賀川特撮アーカイブセンター」を拠点にして、子どもたちに特撮を経験してもらう「すかがわ特撮塾」を開催しています。田口清隆監督を塾長としてこれまで4年間続け、毎年短編特撮映画を作ってきました。

野口:工作のように実際に触ったり作ったりできるのは特撮美術のメリットですね。CGは教えることはできてもその手触り感を伝えることができなくて。

三池:そこなんですよね。映像的にはCGは何でもできるけど、現物が目の前にあって触れるっていうのがアナログの強みなんです。 あとは展示ですね。本当は展示物も触れるようにして、ミニチュアが実際どれぐらいの重さがあるとかを体感してほしいんだけど、壊れる恐れがあるからなかなかそうもいかなくて。ただ、それも含めて目の前に物理的に存在しているのが特撮美術の価値というか。

野口:アーカイブセンターでは展示物も積極的に残そうとされていますね。

三池:そうですね。ミニチュア特撮の生き残り手段として。もう僕らの仕事はコスト的にも映像制作からの需要はなくなっているんですよ。

野口:ミニチュア時代はできることとできないことがあったし、'90~'00年代はCGも各プロダクションで個性があったと思うのですが、 最近ツールが良くなればなるほどCGに個性や味というものが見えなくなっている気がして、これからVFXで特徴を出していくのが難しいなと思うんですけど。

三池:’90年代は手描きのディズニーとCGのピクサーと棲み分けができていたのに、ディズニーの方も全部CGになったから、見かけ上は差がありませんよね。技術もあそこまで極まると独自のカラーというものは感じられません。CGでも『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018年)くらい大胆にやれば驚かされますけど。CGはすべての表現において正確過ぎるので、アニメはちょっとデッサンを狂わせるくらいが丁度いいんだと、個人的には思いますよ。

野口:その点では全体的に寂しい感じはありつつも、作品単位では面白いものができている。

三池:そうですね。VFXの恩恵としては日本の映画でも世界に通用するものができるようになりました。『キングダム』だったり『ゴールデンカムイ』だったり、コミックの実写化がここまで成功するようになったのは、間違いなくCGの進化あってのことですから。一方で、日本映画とハリウッド映画の予算格差を考えた時に、CGだけでハリウッドクオリティを目指すのはやっぱり難しいと思うんですよ。 そうすると一つ味付けとして、「日本の作品だからこんな感じになった」みたいなアナログ風味もたまにあっていいのかなと思うんです。 それが長年ミニチュアで食ってきた人間のささやかな願いです。

三池 敏夫 氏

三池敏夫

みいけ としお 特撮美術監督

1961年熊本県出身。1984年九州大学工学部卒業後、矢島信男特撮監督に師事。東映テレビヒーローシリーズに参加した後1989年フリーとなり、東宝のゴジラシリーズ、大映のガメラシリーズ、円谷プロのウルトラマンシリーズなどに特撮美術として参加する。2008年再び特撮研究所に所属。代表作は『超人機メタルダー』(1987)、『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)、『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995)、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003)、『男たちの大和』(2005)、『日本沈没』(2006)、『ウルトラマンサーガ』(2012)、『巨神兵東京に現わる』(2012)、『のぼうの城』(2012)、『シン・ゴジラ』(2016)、『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019)、『Fukushima50』(2020)、『シン・仮面ライダー』(2023)、『新幹線大爆破』(2025年)など。
書籍「特撮美術監督 三池敏夫の仕事」 竹書房, 2024

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INTERVIEWER :野口光一(東映アニメーション)
EDIT :日詰明嘉
PHOTO :弘田充
LOCATION :東映アニメーション

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