トレンド&テクノロジー / デジタルコンテンツの未来〜温故知新〜
第18回:浅野 秀二(株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービス VFXプロデューサー/VFXスーパーバイザー)
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CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はVFXプロデューサーの浅野秀二氏に登場して頂いた。自主制作映画からトーヨーリンクスに参加し、さまざまなCG作品を制作した後、VFXプロデューサーとしてこれまで日本で最多の作品を手掛けたキャリアを持つ人物だ。著名監督と過ごした学生時代の貴重な話から黎明期の日本のCGプロダクションの模様、VFXプロデューサーとして大切な能力についてまで、幅広く伺った。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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映画青年が卒業後、偶然にもトーヨーリンクスへ
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):浅野さんは立教大学の映画制作サークルSPP(セントポールプロダクション)出身で、ここは黒沢清さんや周防正行さん、万田邦敏さんら多くの映画監督を輩出した名門です。浅野さんは『太陽を盗んだ男』(1979年)にも出演されたそうですね。
(※)『太陽を盗んだ男』……長谷川和彦監督作品。個人で原子爆弾を作り政府を脅迫する中学校教師(演:沢田研二)と、それを追う刑事(演:菅原文太)の物語。内容だけでなく国会議事堂前や皇居前、首都高などでゲリラ撮影を行い社会を騒がせたが、多くのメディアで非常に高い評価を受けた。
浅野秀二(以下、浅野):出演と言っても東急デパートの屋上から現金をばらまくモブシーンのエキストラです(笑)。サークルの先輩から「黒沢清さんが助監督をしている映画でエキストラを募集している」という話を聞いて、ワクワクしながら現場に向かったら、機動隊員役を当てがわれまして、張り切って演じたんですが、後から本編を見ても同じ装備をした隊員が沢山いてどれが自分だか分からず、いきなりエキストラの現実を学びました(笑)。黒沢さんとの出会いはそのときの現場が初めてでした。彼は大学に籍を置いたまま現場で活躍していて、すでに半分プロのような存在でした。『太陽を盗んだ男』が終わって大学に戻ってからは『しがらみ学園』という8ミリの自主映画を撮って、そこには僕もスタッフと役者で参加していました。
野口:当時の立教大学では蓮實重彦さんが授業を持たれていたそうですね。
浅野:「映画表現論」ですね。サークルのメンバーはほぼ必修でした。僕は1年から4年まで毎年出席していました。2年目以降は単位もらえないのに(笑)。それで4年生になると就職活動を始めるわけなんですけど、自分は作品も撮っていたし、やっぱり映画をやりたかったんです。当時は映画会社の募集はなかったのでTV局を受けたりしたんだけど、全然ダメで。そのうち父親の知人を通して映画『小説吉田学校』(1983年)という映画を作っているプロデューサーがスタッフを探しているという話を聞き、会いに行ったその人が山本又一朗さんだったんです。僕はてっきり『小説吉田学校』のスタッフかと思ったら、「今度、コンピュータグラフィックスというものをやろうと思っている」と。僕はその頃コンピュータのことは何も知らなかったのですが、「やる気さえあればいい」と言われて、当時、青山にあった「トーヨーリンクス」という事務所に通うようになりました。
山本又一朗……1947年生まれ、鹿児島県出身。映画プロデューサー。'73年、TVドラマ『子連れ狼 (萬屋錦之介版)』の企画・プロデュースでキャリアをスタート。以降、『太陽を盗んだ男』(1979年公開)、『ベルサイユのばら』(1979年公開)、『愛・旅立ち』(1985年公開)など多くの作品に携わる。1993年には映画製作・マネジメント会社であるトライストーン・エンタテイメントを設立。現在、代表取締役会長。

野口:それが『ゴルゴ13』(1983年)だったわけですね。
浅野:はい。何もわからないなか、方眼紙と電卓を渡されてビルを作ることになったのですが、これがまた担当したビルの両面が直線ではなく、膨らみのある曲線になっていて、その計算が面倒で面倒で(笑)。方眼紙に設計図を描いて、XYZの数字をコンピュータに打ち込んでいく。何をやっているのか、まったく分かっていませんでした。そもそもコンピュータグラフィックスの映画といえば当時は『トロン』(1982年)しかない頃です。一応、観はしましたけれど、それと『ゴルゴ13』がどうしても結びつきませんでした。
野口:その作業は何人ぐらいで行なっていたんですか?
浅野:10人ぐらいでした。漫画家やアニメーター、イラストレーターもいれば旅行代理店で受付をやっていた人とか、梁山泊のような場所でした(笑)。でも、そのなかには東大出のアニメ好きはいても本格的なコンピュータエンジニアみたいな人はほとんどいないわけです。
野口:阪大の大村皓一教授のチームが開発したコンピュータシステム、LINKS-1がやってきてからは順調に進んだんですか?
浅野:出来上がったばかりのシステムはさほどCPUパワーはなかったしメモリーも脆弱だったので、大したことはできなかったと思います。せいぜい1、2時間かけて一枚絵を描く程度でしたね。クライマックスのヘリコプターのシーンもHDモニターに出した絵を1フレームずつカメラで撮影するという、気の遠くなるような作業をして完成させました。
野口:制作中はまだ学生で、完成したタイミングでそのままトーヨーリンクスに就職を?
浅野:そうです。『ゴルゴ13』をやっている間に会社も整ってきて、トーヨーリンクスもいわゆる会社然とした形になりました。そのころには、つくば万博で『ザ・ユニバース』というOMNIMAXの70ミリ立体映画をフルCGで作る契約が決まっていて、本格的にLINKS-1を運用すべく地下に設置したんです。今でも忘れられないことがあって、ある日、寝坊して遅刻をしてしまい、寝ぼけながらにオフィスの扉を開けたら、なんとそこにフランシス・F・コッポラが見学に来ていたんです。ビックリして目が覚めました(笑)。
(※)「つくば万博」……1985年開催の国際科学技術博覧会。日本を含む48ヵ国と37の国際機関、国内から 28の民間企業・団体が参加。入場者数は 2033万人を数えた。『ザ・ユニバース』(10分)は富士通パビリオンのために作られた世界初の全天周、フルCG、3D立体視映像(アナグリフ方式)として技術者から一般の観客までをも魅了し、博覧会の終了後も世界各地の科学館やプラネタリウムで長年に渡って公開される大ヒット作となった。

野口:それはすごい。その頃は海外の著名監督やCGクリエイターがトーヨーリンクスに見学に来ていたそうですね。Rhythm & HuesやPDI(Pacific Data Images)、TDI(Thomson Digital Images)など、さまざまな人が出入りて技術交流をしていたと聞きました。
浅野:日本でCGをやっている会社はまだ他にあまりなかったし、SIGGRAPHに行けば有名でした。技術的にもアドバンテージがあったからだと思います。
野口:ジョン・ラセターとの交流もあったとか。
浅野:横浜博覧会に向けて作った『IMAGINATION』という作品がSIGGRAPHで最優秀賞をいただき、オランダ・ユトレヒトの国際映画祭に招待されたんです。そのパーティーの席にラセターがいて、「あれは良かったね」と褒めてくれました。その場で『IMAGINATION』のテーマソングを口ずさんでくれたのを覚えています(笑)。
横浜博覧会……1989年開催の博覧会。1333万人が来場した。三菱未来館で上映されたフルカラーCG、3D立体視映像『IMAGINATION』(10分)は大人気となり行列が絶えることがなかったという。

CGがさまざまなメディアで展開していった1990年代
野口:その時代はしばらくイベント映像やアミューズメント施設向けにCGの需要があり、並行してCMにCGが使われる時代がやってきましたね。
浅野:バブルだなと感じたエピソードがあります。東北新社の中島信也さんが演出したアリナミンVのCMを撮るときに、宮沢りえさんとアーノルド・シュワルツェネッガーがキャスティングされたんです。しかも撮影はハリウッドで。僕らCGチームも同行させられたのにも驚きましたが、使用するモーションコントロールカメラもわざわざ日本から持って行ったのにはもっと驚きました(笑)。その後くらいにバブルもはじけ、CMも下り坂になってきて、ゲームCGもまだそこまで本格化していない頃、僕は会社(当時の名称は「リンクス」)を退職しました。一区切りつけたくなった気持ちもあって。
野口:そのあとはどんなお仕事を?
浅野:フリーでCMやゲームの仕事をいくつかこなしていました。そんな折にトーヨーリンクスで一緒だった秋山貴彦くんから石井竜也監督の『ACRI』(1996年)のCGを手伝ってほしいという連絡が来ました。これが僕にとって初めての本格的な映画VFXの仕事でした。
秋山貴彦……VFXスーパーバイザー、株式会社4Dブレイン代表取締役。主な作品に『河童』(SFXスーパーバイザー)、『ACRI』(VFXスーパーバイザー)、『ファイナルファンタジー』(CGディレクター・VFXアートディレクター)など。VFX業界の団体であるVFX-JAPANの創設にも尽力した。

野口:全編オーストラリアでの撮影だったそうですね。
浅野:撮影だけでなく、CG制作から仕上げまで現地でやりました。当時はゴールドコーストにワーナーブラザーズのスタジオがあって、コーディネートを請け負った現地のVFXプロダクションが敷地内にコテージを借りてくれたんです。そこにコンピュータを設置して制作環境を整えてくれて、そこで半年間くらい作業しました。その仕事の最後の頃に日本から見学に来られた方がいました。それが当時のスクウェアのオーナーだった宮本雅史さんだったんです。その頃は僕も秋山もあまりゲーム業界のことに詳しくなくて食事したくらいで終わったのですが、『ACRI』を完成させて帰国したらスクウェアから連絡が来て、坂口博信さんが会いたいと。
坂口博信……『ファイナルファンタジー』シリーズのディレクター。このほか多くのスクウェア作品でプロデューサーを務めた後、3DCG映画『ファイナルファンタジー』(2001年)を監督した。
野口:映画『ファイナルファンタジー』の始動というわけですね。
浅野:それで秋山くんと二人で行き、坂口さんの壮大な構想を聞きました。それで人集めから協力することになりました。
野口:ハワイにスタジオを構えることは当初から決まっていたんですか?
浅野:半分くらいかな。とにかくハリウッド映画にしたくて、そのためにはアメリカ国内で作る必要があったんです。それで日本語が通じる場所を拠点とするとなると、ハワイだろうと(笑)。
野口:浅野さんはどの程度、このプロジェクトには従事されたんですか?
浅野:僕は最初の立ち上げの際に人集めをしたくらいでプロジェクトを離れて帰国しました。その後フジテレビの大村(卓)さんという、『世にも奇妙な物語』や『F1グランプリ』のCGプロデューサー(当時)からのお誘いで、globeのコンサート映像制作に参加しました(「globe tour 1999 Relation」)。これはステージのスクリーンに流すイメージを作成し、全国のライブツアーに同行して現場での出力まで行いながらキャラバンしました。その他にも藤井フミヤさんや松任谷由美さんのコンサートにも参加しました。

VFXプロデューサーの立ち位置と必要なスキルとは?
野口:CG制作の現場からは一回離れたんですね。
浅野:ええ。それがちょうどいい癒しの期間になったんですよね。そうやって全国を回っていた頃にIMAGICAのとある方から連絡が来て、当時のリンクス(1988年にトーヨーリンクスから「リンクス」に社名変更、現株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービス)に戻ってきてほしいと言われ、コンサートの仕事もちょうど一区切りしたところだったこともあり復帰を決めました。入社後しばらくして、黒沢清監督の『回路』(2001年)のVFXを手掛けることになりました。ちょうど2000年が本格スタートでした。
野口:そこから現在に至るまで85本も手掛けるんですね。浅野さんのVFXプロデューサーとしての特徴は、必ずしも社内でスーパーバイザー(SV)を立てずに、外部の人を起用するところにあり、そのスタイルを赤羽智史(現THE SEVEN所属)さん、齋藤大輔さん、長井由実さん、古橋由衣さんたちにも引き継がれているんじゃないかなと思うのですが、IMAGICAで人材育成は意図的に行なっているんですか?
浅野:ありがたいことに、僕が出会った人たちはそもそもが優秀な人たちだったんです。赤羽くんは新卒でIMAGICAに入って営業からカラリストまで一通り経験してきて、会社側からもVFXプロデューサーを育てたいということで白羽の矢が立ちました。僕の方から教えることはそんなになかったけど、やり方は見てもらっていました。僕が監督とかプロデューサーとかとやり合うのを見て、多分色々学んだと思います(笑)。教えたとしたら、そんな姿を見せたことくらいじゃないかな。『カムイ外伝』(2009年)や『聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実』(2011年)などすごく大変な作品に参加してもらって一緒に苦労してるからね。その意味で言うと、頭から指導するとか教えるとかではなく、一緒に体験することが一番タメになったんじゃないかなと思ってます。
野口:浅野さんはVFXプロデューサーをする作品とVFXSVをする作品ではどちらが多いですか?
浅野:肩書でいえば、たぶんVFXプロデューサーの方が多いんじゃないかな。 クリエイティブとプロデュース的なところのどちらも面倒見るというのが、自分の中でのSVのイメージなんです。スタッフの布陣で判断している感じですね。
野口:プロデューサーのときは明確に頭の切り替えをされますか?
浅野:やっぱありますね。 というか、監督と一緒になって没頭してしまうと終わらないので、意図的に自分は一歩引いておく必要があるんです。それとプロデューサーというのはどうしても1本だけに付きっきりになれないんです。大抵は複数本は並行して受けることが多く、作品のクォリティを担保するためにディレクターを立てておく必要があって、そういう意味で、自分はプロデューサーという立ち位置になることが多いですね。

野口:今、IMAGICAの中でVFXに積極的な若手は?
浅野:プロデュース的なPMとか、そういう制作畑でやっていきたいという人は少ないですね。もう一つ、それをやりたいと言ったところで本人にその能力があるかどうかも重要です。プロデューサーというのは責任あるポジションですから、どうしてもできる人に集中してしまいます。なので現状、(齋藤)大輔くんにしても長井さんにしても、抱えている本数が半端ないです。
野口:トーヨーリンクスでの制作の仕事からここまでVFXプロデューサーのキャリアを積まれてきましたが、ご自身で振り返ってみてこの仕事に向いていると思えるスキルは何だと思いますか?
浅野:基本的な映像技術の理解力やセンスや相性などとは別に、自分の場合は自分の中にあるホスピタリティみたいなものが強く影響しているような気がするんです。実家は新潟県の瀬波温泉という観光地で旅館をやっていて、そこで両親がお客さんに接する姿を子供の頃から見ていたことが影響していると思います。子供ながらに「どうしてこのお客さんはこんなに喜んだのだろう」という興味が湧いたり、そのために努力や工夫をしているスタッフの姿から自然と学んでいたのかもしれません。お客よりちょっと先回りするだとか、先読みするだとかの大切さを学んで、今に繋がっているのかなと思います。
野口:ではもし現在の若者が何かプロデューサー職に付きたいと思った場合、そうしたホスピタリティを感じる仕事をアルバイトでも経験しておくと良いかもしれませんね。
浅野:そうですね。世は正にサービス産業全盛の時代で、様々な形式のアミューズメント施設もありますしね。今の時代はコミュニケーションスキルが益々シビアになっていると思います。そこで顧客と相対することを経験することによって、有益なコミュニケーション術を学べる気はします。YouTuberとかインフルエンサーとかが、見えない人を相手にするよりも、見えている人とのコミュニケーション経験がやっぱり重要なんじゃないかなと思います。本当に具体的な人と相対して向き合うこと、それに集中してみるということがやっぱり大事なんじゃないかなという気がしますね。

浅野秀二
あさの しゅうじ 株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービス VFXプロデューサー/VFXスーパーバイザー
立教大学卒業後、1983年に国内ではまだ希少な存在だったCG制作会社トーヨーリンクス(現IMAGICA EMS)に入社し、CG制作に携わるようになる。博覧会やアトラクション、CMのCGの制作を経て、97年以降、映画のVFXを手がけ始める。
VFXプロデューサー/VFXスーパーバイザーとしての主な作品としては、『ACRI』(1996/石井竜也監督)、『ドラゴンヘッド』(2002/飯田譲治監督)、『ジョゼと虎と魚たち』(2002/犬童一心監督)、『アカルイミライ』(2003/黒沢清監督)、『交渉人 真下正義』(2005/本広克行監督)、『SHINOBI』(2005/下山天監督)、『どろろ』(2007/塩田明彦監督)、『SAD VACATION』(2007/青山真治監督)、『僕の彼女はサイボーグ』(2008/郭在容監督)、『カムイ外伝』(2009/崔洋一監督)、『東京島』(2010/篠原誠監督)、『聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実』 (2011/成島出監督)、『男はつらいよ お帰り寅さん』(2019/山田洋次監督)、『空母いぶき』(2019/若松節朗監督)、『スマホを落としただけなのに ~最終章~ ファイナル ハッキング ゲーム』(2024/中田秀夫監督)、『北方謙三 水滸伝』(2026/若松節朗監督ほか)、『黒牢城』(2026/黒沢清監督)などがある。
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INTERVIEWER :野口光一(東映アニメーション)
EDIT :日詰明嘉
PHOTO :弘田充
LOCATION :株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービス