「CGでアニメをつくる」と「アニメでCGを使う」は違う? 野末武志 × 瀬下寛之 対談
- アニメ
- 映画・TV
世代の異なる2人は、なぜ3Dを選んだのか?
──お二人は20年来のお付き合いなのだとか。そもそも表現の媒体として3DCGをどうして選んだのでしょうか?
瀬下:あれ、野末君とはいくつ違うんだっけ?
野末:僕は44歳です。
瀬下:僕はもう50歳(泣)。僕の場合...映像の世界に惹かれた最初のきっかけは、ルーカスの「スター・ウォーズ」(1977年)です。小学生でした。ちょうどその頃は、他にスピルバーグ、キューブリック、リドリー・スコットら大監督達が活躍していて、それはもう、強い影響を受けました。
その一方で、SF小説を読み漁り、80年代中期にはウィリアム・ギブスンに代表されるサイバーパンクSFに衝撃を受けます。サイバースペースに意識がジャックインするイメージが、映画的体験からバーチャルな疑似体験へと繋がる憧れの素地になったと思います。
野末:もう完璧なまとまり方ですね。
瀬下:え、そう?(笑) まとまりすぎ? で、CGとの出会いは、映画『トロン』だと思います。同じ頃...か、ちょっと後だったかも、トーヨーリンクス(現IMAGICA)が『ゴルゴ13』の戦闘シーンを3DCGでつくったりしていて、その当時の雑誌の記事とかに「映画全てをコンピューターでつくる時代が来る!」とかなんとか書いてあったような。それで「最先端映像かあ...CG使えば一人で映画つくれちゃうのかなあ...」とか間違った印象で記憶に残りました(笑)。
──それで、リンクスに就職されるんですね。
瀬下:89年です。僕が入社する前に、ジャン・ミシェル・フォロンというベルギーの画家の絵をモチーフにしたTVCM(東京ガス)をCGアニメーションでつくっていました。それがすごく感情豊かな映像で、日本でやるならここしかないと思って。
──野末さんはいかがですか?
野末:瀬下さんとは近いところはありますね。僕も元々ハリウッドの映画がすごく好きで。でも実は、親が最初に見せてくれた映画が『エイリアン』とヒッチコックの『鳥』だったことが、すごく大きな影響かも。
瀬下:それトラウマみたいだね(笑)。一回『エイリアン』見たら忘れられないでしょう?
野末:そうですね。それは良かったんですが、根本が『エイリアン』になっちゃって、『スター・ウォーズ』は全然受け入れられませんでした。嫌いではないんですが。そこから特撮にハマり、買ってもらったビデオデッキでずっとコマ送りで特殊メイクのシーンを見ているような小学生でした。だから瀬下さんと似てますよね。ただ僕は、そこからCGには全然行き着かなくて。日本のアニメで最初にCGを使った『レンズマン』を見てすごいな、と思っていたくらいでした。
瀬下:おお、『レンズマン』! JCGL(ジャパン・コンピュータ・グラフィックス・ラボ)の作品じゃないですか。
──CGの道にはいつから?
野末:大学時代は何も考えていなくて、このまま卒業してサラリーマンになるのかな、とぼんやり思っていました。それが変わったのが、大学時代。バイトしていたレンタルビデオ屋さんで、『映画秘宝』のライターをやってるギンティ小林(ライター)さんが先輩だったんです。彼にとんでもない映画をたくさん見せられて、「そうか人生はみ出してもいいんだ」と(笑)。
瀬下:とんでもない映画って...『ギニーピッグ』のような?
野末:そこまでグロくないです。『片腕カンフー対空とぶギロチン』とか、もうちょっとマニアックな映画ばかり。「ちょっといいビデオ入ったから家来ない?」なんて誘われて。他にバンドもやっていて、知り合いのバンドで欠員が出たから話を聞いてよ、と言われたのがビルドアップのCGデザイナーの弟さんで。その縁で「スピードファイター」を見せてもらったのが、CG業界に興味をもったきっかけです。
その時に「CGなら一人で映画を全部つくれる」と思えたんです。それに、CGでもやって頑張らないとずっとフラフラし続けてしまうと思ったんですよ(笑)。
瀬下:CGが人生救ってくれた感じですね(笑)。僕は、そのあたりの頃って...PS1用ゲーム「機動戦士ガンダムVer.2.0」のオープニング・ムービーをつくってた時期だったかな...ちょっと記憶が曖昧ですが。
野末:知ってます知ってます。それを見て、「もしかしたらCGで食っていけるのかも」と思ったこともあって、デジタルハリウッドの半年コースに行きました。CGだったらゲームでも映画でも、いろんな出口がありますから。その在学中にゲーム会社を受けたら受かっちゃって、いまここにいます。
粘り続けた2人がここにいる
瀬下:野末君がCGを始めたのは、日本でも「CGで食える」というモデルがようやく出来てきた頃かもね。
野末:在学中にゲーム会社にたまたま受かったのも、時代の波に乗れたんだと思います。だから僕が若い人に言いたいのは、"時代の波に乗れ"ってことです。
瀬下:すごく重要なことですね。よく、「才能があるかどうか」とか論じる人がいますが、僕達二人は...どちらかというと才能があるとは思ってないですよね(笑)。
野末:全くないですね。
瀬下:むしろ大事にしているのは、粘り強さと好奇心。あと...これは別に、自分の力でどうにかできることじゃないんですが...できれば「運」。
野末:僕は「運」ですね。一番みんなに言いたい。
瀬下:え?...それ一番なの?(笑)そんな風に言い切ると多くの方々からドン引きされるかも(笑)。
野末:違うんですよ。時代の流れを見極めて乗るしかない。
瀬下:うーん...確かにそうかも...。運って「なんとなく来るもの」じゃない気もしますしね。ずっと、ある業界とか、興味にしがみついて、粘り続けていると、"流れ"が見えてくる。次に"運ばれるもの"が何なのか、ちょっとだけわかる時がある。だから運がある人というのは、好奇心と粘りがおそらく異常な人なのかも、失敗とかめげずにやり続けられるというか(笑)。
──それは新しい考え方ですね。
瀬下:めげずに...で思い出すんですが(笑)、僕は映画『ファイナルファンタジー』(2001年)でフォトリアル3DCG表現を追いかけたりした...日本のCG業界における初期の世代です。覚悟して行って、米国の映画づくりの凄さを痛感させられて帰国し、「日本ではフォトリアルは無理だな」とつい思ってしまいました。実際、未だにお金もかかりますしね...。
──それでセルルックアニメに?
瀬下:そうですね。その反動はあります。場合にもよりますが、フォトリアルの1/5〜1/10くらいのコストで製作が出来るわけですし、日本のアニメファンにとって親しみやすいというメリットが大きいからセルルックを選択しています。結果的には、実現困難なフォトリアル系CG映画をつくり続けているのが野末君。本当にリスペクトですね。もう、どんだけ粘るんだと...(笑)。常人じゃないですね。
野末:全然自覚ないです(笑)。
瀬下:自然に頭おかしいんですね(笑)。僕もある種そうですけど。
野末:必死だったんですよ。とにかく。会社っていろいろ忙しいから、そんな耐えてた印象はないです。
野末氏がディレクターをつとめた3DCG映画『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』(2016年) (C)2016 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved
──野末さんには、「今だからフォトリアルの映画で行ける」という勝算があったのでしょうか?
野末:僕はちょっとずるくて、先人たちが用意した流れの中で色々工夫して、金額面も含めて進めていっただけです。
瀬下:僕らが傷だらけになった失敗経験を、この人は本当に上手に応用しちゃったんですよ(笑)。
野末:いやいや、だってやっぱり、色々なツールが残ってたんですよ。使わなきゃもったいなかった。
瀬下:資産としてのノウハウとかツール群だね。やはり継続的な蓄積って大事ですね。
『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』 (C)2016 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
──フォトリアルの表現は、海外では受け入れられやすいけど、日本では難しいという定説がありますが。
野末:海外でもまだ定着はしていませんよ。でも追々、受け入れられていくと思います。
瀬下:時代の流れで、技術や表現は進化するけど、子供達自身も進化しますから。双方の変容の結果、表現のニーズがマッチする瞬間が、必ず来ると思ってるんです。
CGクリエイターのキャリアパス
瀬下:僕らのやってるセルルックは、日本のアニメを再現しようと思ってはないんです。元々はグラフィックノベルとかアメコミ、バンドデシネを動かしたいんです。スタッフの地道な頑張りのおかげで、作品ごとに少しずつ表現レベルが進化できていて、全体ではその方向にシフトしていってます。いわゆる手描きのアニメには、既にすごい人がたくさんいらっしゃるので、僕ら3DCGが同じ路線に乗る意味がないですから...。
野末:瀬下さんが忙しい間に僕がサクサクっとやっちゃいますけどね......嘘です(笑)。他には、今はゲームの方だとインディーズがすごいですね。
瀬下:えええ! サクサクっとやられたら困る(笑)。表現スタイルとかジャンルを拡げるという感じのイメージは、3DCGが有用な領域を開拓するというイメージでもあるんです。活躍の場を増やしたいんですね。
今、日本のCG業界では、ついに黎明期からのアーティストの多くが定年を迎える時代が近づいて来ました。そんな状況なので、キャリアパスについて考えることが増えたんです。例えば、アシスタントモデラーからスタートしたけど、モデラーが進化してアニメーターになるわけではないです。別な言い方をすれば、当然ですが、CGキャリアの延長線上に監督があるわけではないんです。どこをどう目指すのか、学び方やシフトのしかた、そういったパスが、実は明確に規定できていないんですよ。
野末:うちのチームには、モデラーからアートディレクターになるというパスはあります。全員がなれるわけではないんですが。実例があると、そこを目指すことができますから。
瀬下:それはいいですね。実例が増えるのが一番いいです。
野末:育つ人を見分けるというけど、人によって見込みがある方向性が違うんですよね。一人でなんでもできる人がすごいんじゃない。人によって、いろんな才能がある。だから僕は、チーム内で才能に見合ったポジションを勝手につくっています。
瀬下:それはいいな。理想に近い。僕も作品で職域そのものをつくってきました。それは、自身のメソッドにおいて必要不可欠な機能を明確にできるのと同時に、クリエイターの才能それぞれに合った機能性を発揮する場にもなりました。例えば「プロダクションデザイナー」や「ディレクターオブフォトグラフィー」(DP)とかです。
野末:ハリウッドの職の分け方ってすごく理にかなってますよね。
瀬下:そう思います。日本は独特の形式に進化していて、機能性とか手法の変化に合わせた柔軟な職域設定が難しいんです。もちろん、独特であることが良いとか悪いとかではなくて、僕らのような3DCGのメソッドにははまりにくい。
例えば、ディレクターオブフォトグラフィー(DP)は「撮影監督」と訳されて、機能性も「カメラマン」のように解釈されがちですが、DPは、光と色の方向性をディレクションする、つまり「光」という画材で描く、そのスタイルをつくり上げる役職だと思います。
野末:ビジュアルディレクターみたいなものですね。
──どうして日本にはその概念がないんでしょうか?
瀬下:うーん...独自に発展したから...としか。推測のひとつですが、「Photograph」という言葉の翻訳が「写真」になっていることもひとつの要因かも知れません。写真、つまり真を写したもの、はcameraという装置による記録の結果という印象があります。photoは光、graphは描く、が本来の語源ですから、ちょっと解釈が違う感じですよね。
ちなみに「光画」という和訳が実際にあって、僕は大好きなんですが、あまり一般的に知られておらず。でも「光画」だったら、cameraという装置を使おうが使うまいが、光によって画を描くこと...という印象があって、しっくりきます。これから、「Director of photography」は光画監督と訳したいですね。
──野末さんはどういう役職をつくったんですか?
野末:ライティングやコンポジットのクリエイターのトップに、DPの概念を入れようとしたり、ユニットディレクターという形をつくったり。これも海外では当たり前です。
瀬下:そういう工夫が見えるのがエンドロールですよね。特に米国映画のエンドロールでは、どういうチーム、どういう職域が、どういう工程でつくっているのかという映画製作工程の秘密、その片鱗が公開されている場ですから。
野末:うわっそうなんだ。これからは嘘を書くようにします(嘘)。
瀬下:ええっ!? 嘘書かないで(笑)。やっぱりみんな慣れてるものが好きだから、改革はしたがらないんですけど...。何とか変化していきたいですね。
野末:ルールに縛られずつくってみるのがいいですよね。
とどまることなく繰り広げられる、日本のCG表現を拡張する2人の対談。この続きは、2017年9月21日(木)・22日(金)、ヒルトン東京お台場で開催される「Autodesk University Japan 2017」にて! チケットは現在発売中。記事末尾には本記事限定の割引情報も。
イベントではTonko Houseの堤大介氏、『楽園追放-Expelled from Paradise-』監督の水島精二氏やチームラボ、dot by dot、ライゾマティクスアーキテクチャー、WOWらによるクリエイター・セッションも行われるので是非チェックを!
本記事は、「KAI-YOU.net」からの転載となります。
- 1
- 2