トレンド&テクノロジー / 3DCG の夜明け 〜日本のフル CG アニメの未来を探る〜
第4回:池田 宏 氏(アニメーション演出家/大学教授)
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池田 宏 氏(アニメーション演出家/大学教授)
日本におけるフル3DCGアニメーション制作への理解と振興を目指す本連載。今回は、日本アニメ黎明期の1960〜1970年代に演出家として活躍し、近年は日本大学大学院や宝塚大学でアニメーション教育・研究に携わっている池田宏氏にご登壇いただく。CG導入による生産性の向上の可能性を1970年代から探ってきた池田氏の目に、現在の3DCGアニメを取り巻く状況はどのように映っているのか、じっくりと語っていただいた。
【聞き手:野口 光一(東映アニメーション)】
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70年代にコンピュータ導入を探るも時期尚早と判断
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):池田さんは公募の演出助手第1期生として1959年に東映動画株式会社(現在の東映アニメーション株式会社)へ入社され、非常に早い時代にアニメ制作へのCG導入を探っておられたそうですね。今日はぜひ、これまでの歩みをお伺いしたいと思っています。
池田宏(以下、池田):1974年から研究開発室にてアニメ制作のコンピュータ化などの研究開発を開始したのです。1977年にはNHK放送文化基金の助成を受けた『TV教育に於けるCGアニメ映像の活用のための研究』のメンバーとなり、訪米視察を行いました。オハイオ州立大学、マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学、ユタ大学、ネブラスカ大学、イリノイ大学、ニューヨーク工科大学など、アメリカ各地のCG研究の最前線を見て回ったのです。SIGGRAPHへの参加は1979年のシカゴ大会からですね。
野口:アメリカのCG黎明期を見てこられたわけですね。当時それらの大学に所属していた研究者のなかには、1986年のピクサー設立に関わった人たちも含まれているはずです。『空飛ぶゆうれい船』(1969)や『どうぶつ宝島』(1971)の脚本・演出に携わっていた池田さんが、どういう経緯でCGの調査・研究に従事することになったのでしょうか?
池田:1972年の労働争議(事業所閉鎖)解決後、社内の機構・人事再編により、新設の研究開発室へ異動することになったのです。抱えた研究開発テーマには、各種技術改良、アニメーション制作の電子化や省力化・自動化がありました。そもそも、この労働争議がなぜ起こったのかを説明するためには、東映動画設立の経緯までさかのぼる必要があります。東映動画は、1956年の設立当初から赤字体質を抱えていた、言わば「鬼っ子」だったのです。東映株式会社が作成した、東映動画のアニメーション事業計画には大きな問題がありました。しかし、計画が見直されないまま東映動画の発足が決定し、作品を作れば作るほど赤字が発生・増大するという、企業としては考えられない組織になってしまったのです。
野口:事業計画の問題というのは、具体的にはどんなものだったのでしょう?
池田:1956年1月25日、東映は、東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を起ち上げました。この会の委員長は大川博社長で、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長(後の教育映画部次長)や、今田智憲営業課長らが任命されました。ところが、事業計画案を巡り2人の意見が対立したのです。そこで大川社長の指示のもと、意見調整を行う会議が同年2月4日に開催されました。この会議で、今田さんは「…絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない…」と主張したのです。しかし会議を取り仕切った副委員長の山崎季四郎常務取締役(教育映画部担当)は、「…漫画映画制作企画の基本方針に関する事項については、赤川委員を中心に各委員の協力を得て立案すること…」と決裁しました。これらのやりとりは、議事録(稟議書)として残っています。
野口:つまり、教育映画部の意見が優先され、営業部の意見は却下されたわけですね。
池田:同年4月11日に開催された「漫画映画製作研究委員会」の会議資料には、短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はありませんでした。この内容が承認され、同年8月1日に東映動画の発足が決定されたのです。この委員会で実務担当委員の一人を務めていた押山業務課長(当時)から、当時の様子を聞く機会(注1)がありました。押山さんは意見調整の会議にも同席していたのです。「…当時の今田さんは、カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入することも提案していました。さらに作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし…との意見も持っていたのです」と語ってくれました。これに関しては、後年になって今田さん本人からも確認を取っています。
注1:1961年、池田氏は「東映十年史」の原稿執筆に取り組んでいた。そのための各種資料の提供を受ける目的で、池田氏は押山氏に合うことになった。この時、当時の様子を聞くことができたという。
野口:その時代の営業部が、今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既にもっておられたのは素晴らしいですね。
池田:加えて、事業計画に記載された制作経費(コスト)の算定根拠が非常にいい加減だったことも問題でした。事業計画では、動画担当アニメーターの1人当たり1ヶ月の作画量を1,200枚に設定していました。しかし発足後の動画作画数実績は、『白蛇伝』(1958年)216枚、『少年猿飛佐助』(1959年)194枚、『西遊記』(1960年)156枚というものでした。実際のところは、事業計画の13%〜18%程度の実績に留まったわけです。
野口:それほどの大きな乖離があったとは、驚かされますね。
池田:当時のスタッフの技術力や、作品の質・量などを考慮せず、買収先の日本動画株式会社の幹部が提出した都合の良いデータだけを事業計画に採用したようです。これに関しては、日本動画(当時)の山本善次郎(別名:山本早苗)社長や、藪下泰司さんの証言も取っています。当然ながら制作コストは当初予算の2〜3倍となり、それ以降の作品制作においても赤字が続くことになったのです。この問題の詳細は、『東映動画研究――生産性とその向上』(The Japanese Journal of Animation Studies, 2012, Vol.13, N0.1A)という論文に記述しました。
野口:生産性の問題は、現在のアニメ制作においても完全には解決できていないように感じますね。
池田:東映動画は作業量を削減することで、生産性の問題に対応しました。実際、私が携わった『空飛ぶゆうれい船』では総動画作画枚数を約10,000枚。『どうぶつ宝島』では約40,000枚まで抑えました(注2)。しかし、こういった作業量の削減だけでは根本的な問題解決に至らなかったのです。私自身は、生産性を向上したいなら、制作のオートメーション化・作画技術の改革・人材育成システムの改善などが必要だろうと考えていました。
注2:『白蛇伝』の総動画作画量は約65,000枚、『少年猿飛佐助』は約75,000枚、『西遊記』は78,000枚だった。
野口:その思いが、研究開発室でのコンピュータ化に関する調査・研究へとつながっていったわけですね。
池田:当時の東映動画は、新システムへ移行するなら、確立した技術領域である仕上作業(トレス・彩色)以降から着手すべきだと考えていました。しかしエド・キャットマル氏は、仕上作業以降にコンピュータ処理を適用するシステムだけでなく、動画の中割りの自動作成や、3DCGの導入なども論文のなかで提唱していました。(“New Frontiers in Computer Animation” AmericanCinematographer, 1979)その先進的な考えに感銘を受けたことを覚えています。
野口:1979年ということは、キャットマル氏がニューヨーク工科大学のコンピュータ・グラフィックス研究所から、ルーカスフィルムに移籍した年ですね(注3)。
注3:その後、キャットマル氏はスティーブ・ジョブズ氏らと共にピクサーを共同設立し、現在は同社およびウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの社長を務めている。
池田:東映動画の研究開発室メンバーは、キャットマル氏が考えたニューヨーク工科大学のシステムを見学させてもらい、導入するか否かを検証しました。その結果、全行程を人間の手で行う旧来の制作方法を、同氏のコンピュータシステムによる制作方法に置き換えた場合、一層高額な制作費が必要になる、という結論に至ったのです。当然、このような費用対効果の悪いシステムは導入できない、時期尚早であるという判断が下されました。東映動画の判断基準は、「従来のシステムよりも費用対効果が良ければ導入する。悪ければ導入しない」というシンプルなものでした。この費用対効果を点検せず、システムの導入を決定した会社もありましたが、結局は事業継続に失敗して倒産しましたね。
野口:そんな調査を1970〜80年代になさっていたとは、驚くべき先見の明ですね。
組織管理担当と制作実務担当は、別の人間にした方が良い
池田:費用対効果の悪さの原因は、コンピュータ本体と周辺機器の性能の低さや、非常に高い導入コストにありました。1980年代初頭、三菱電機株式会社 中央研究所にシステム開発を委託したことがあったのです。三菱側のシステム案で提示されていたハードディスクは大きさがドラム缶程もあったのに、容量の単位はキロでした。テラでもギガでもメガでもなかった。このエピソードひとつだけでも、当時のコンピュータの性能の低さが理解できるでしょう。30分のTV用短編のデータ容量は、非圧縮の場合54ギガ余りと言われていました。それを保存するためには、広い会議室いっぱいのハードディスクが必要でした。当然、もの凄く高価なシステムになりましたね。
野口:まだまだ実用に耐えられる段階ではなかったわけですね。
池田:こんなエピソードもありました。先方のスタッフのなかには、理学・工学系の博士号取得者が数多く含まれていたのです。彼らは「アニメの制作システムであれば、簡単に実現できますよ」と言い、初回の会議では事態を楽観視していました。ところが次の会議では「ちょっと質問が…」と言いだし、さらに「ちょっと問題が…」となり、1ヶ月後には計画がペンディング(保留)されてしまいました。他の会社や大学の研究所でも、同様の事態が発生していたようです。
野口:アニメ作りのシステムなんて簡単だろうと思って蓋を開けてみたら、予想外に複雑で物量も多かったのでしょうね。
池田:東映動画側はコンピュータの知識が不足しており、相手側はアニメーションの知識が不足していました。この問題を克服しなければ、共同開発は難しいと実感しましたね。その教訓を踏まえて、後年、株式会社東芝と東映動画のスタッフによる泊まり込みの学習会を実施したのです。それを経て1985年に出来上がったのが「コンピュータによるアニメーション制作システム(CATAS:Computer Aided Toei Animation System)」という「仕様書」です。この時点でも、求められる水準の映像制作に必要な技術は出揃っていました。可能か否かだけを考えれば、可能だったのです。しかし費用対効果が悪すぎるため、今すぐ企業の事業活動に使用できるものではなかった。コンピュータと周辺機器の性能が上がり、価格が下がるのをひたすら待つことになったのです。
野口:CATASの仕様がまとまった直後、池田さんは東映動画を退社し、任天堂株式会社に入社しておられますね。どういう経緯があったのでしょうか?
池田:任天堂との付き合いは1975年頃からありました。三菱電機との共同開発で、EVR(Electronic Video Recording)というメディアを使った任天堂の業務用野球ゲームの開発を担当したのが最初の接点でしたね。その後も個人的な付き合いが続き、任天堂がファミリー・コンピュータを開発した1983年頃からは、相談にのる頻度が増えていったのです。そんな経緯があり1985年、任天堂に情報開発部長として入社しました。
野口:長年の付き合いを経ての入社だったのですね。その後は、ゲーム開発を担当されたのでしょうか?
池田:私が入社した1985年当時、任天堂の開発組織は開発第一部~開発第三部で構成されており、何れもハードウェア・ソフトウェアの両方に対応していました。ただ、ファミリー・コンピュータを市場に送り出してからは、ソフトウェアの開発力を強化する必要がでてきたのです。ファミリー・コンピュータ事業を継続的に展開するためには、新しいゲームソフトを市場へ供給し続けることが求められました。そのためのソフトウェア開発専門の部署として、情報開発部が設置されたのです。私はその担当部長として招かれました。ただ、私自身は当時からゲーム制作には興味がなくて、未だに遊ばないのですよ(苦笑)。もともと高校時代はフランス文学志向で、大学時代は研究対象メディアとして映画を選びました。自分で何かを表現したい、伝えたいという思いが根底にあったので、ゲーム制作は私のやりたいことではなかったのです。
野口:最近のゲームは表現のひとつになっていると感じますが…。
池田:ゲームの場合、自分のメッセージを伝えることが主目的ではありませんよね。人をどうやって遊ばせるか、ゲームの世界に引き込むか、といったことが目的となります。こういう会話(コミュニケーション)に共通する、インタラクティブな関係を保つための駆け引きが必要となるのです。この「インタラクション」には興味があり、CGアニメーションにおけるインタラクティブな領域のものとして捉えています。後年になってから東京工芸大学でゲームに関する講義を受け持った際にも、そんな切り口で展開していました。「駆け引きの理論」という意味の「ゲームの理論」や、ヨハン・ホイジンガ氏、ロジェ・カイヨワ氏が、それぞれの著書のなかで述べているような「遊び」そのものの究明が研究テーマとなっているのです。
野口:そうすると、具体的には社内でどういった役回りをされていたのでしょう?
池田:私自身は組織管理に加え開発の責任も担っていましたが、基本的には映画会社と同じように、組織管理担当と制作実務担当は別の人間にした方が良いと考えていました。私の下にいた2人の課長職は、1人を管理専門、もう1人を開発専門としたのです。その開発専門の課長というのが今も任天堂にいる宮本茂さんです。彼にはゲームの責任だけをとらせるようにして、事務的な仕事は一切やらせませんでした。「ハンコ押しなどはしなくて良いから、ゲーム作りに集中しろ。君がゼネラルプロデューサー(山内溥社長)と相談して決めれば良い。“俺は聞いていない”といった文句は一切言わない」と宣言していました。
野口:宮本さんが思う存分ゲーム作りに打ち込める体制を構築し、それが任天堂の躍進につながったわけですね。その一方で、東映動画時代に始めた日本大学芸術学部などでの講師も継続されていましたよね。京都から通っていたのですか?
池田:任天堂への入社を決める段階で日本大学の講師を続けることは認めてもらっていたのです。日曜日の晩に鎌倉の自宅を出て、新幹線で京都に移動して社宅に泊まり、木曜日の晩に鎌倉に帰り、金曜日に日本大学へ出講、という生活をずっと続けていました。実際には、開発部の運営が落ち着いてくるにつれ、京都に宿泊する日数がだんだん減っていきましたけれどね(笑)。
技術習得に加え、独自の人生観・世界観も追求すべき
野口: 日本大学芸術学部からは、『アリーテ姫』(2000年)や『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)の片渕須直監督を始め、多くの教え子が育っていますよね。
池田:日本大学での講義は1971年からなので、40年以上になります。アニメーションを教育・指導する際には、基盤として心理学や文化人類学を学習させるなど、科学的なアプローチを心掛けていたのです。アニメーション制作に関連した研究テーマの1つに「画像のデータベース」がありました。ファンタジーのような架空世界で展開される作品の場合、作り手どうしがイメージを伝達し合い、認識をすり合わせていく必要があります。そこで現実世界の写真を大量に収集・整理し、写真の特定部分を使い、より具体的なイメージを伝えられるようにしたのです。山・川・海・森・林・野原などの自然環境に加え、動物、人間など、数千枚の写真を集めました。人間の場合は、多様な年齢の男女による、バリエーション豊かな行動や感情表現が撮影されている写真を探しました。
野口:大量の写真の整理や検索はどのようになさったのですか?
池田:まずはスクッラップブックにファイリングしました。さらに各写真を多目的に引用するため、それぞれに絶対番号と整理番号を付記し、データベース化を図ったのです。この活動は、後年になって日本アイ・ビー・エム株式会社と共同で実施した「映像データベース」作成プロジェクトへと発展しました。
野口:70年代と比較すれば、今のコンピュータの性能は飛躍的に発達しています。データベース化の実現は充分に検討する価値があるように思いますね。
池田:今の時代であれば、「アニメーションのデータベース」も充分に検討する価値があります。熟練アニメーターが手付けした動きはもちろん、モーションキャプチャのデータも加えれば良いでしょう。それらのデータの動きやタイミングをアニメーターが加工し、新しい作品制作に活用するのです。新しくデータを作るたびに追加すれば「増殖型映像データベース」が構築できます。
野口:そのシステムが機能すれば、新しいアニメーターの育成や、生産性の向上にも効果を発揮しそうですね。
池田:従来のシリーズ物のセル・アニメ制作では、1度使用したセルや動画を「バンク」と称して保存し、再利用して新たな作画作業を削減していました。生産性を向上させるための工夫と言えますね。映像データベースを基にした制作なら、それ以上の生産性向上が期待できます。新作が完成するたびにデータが増殖し、新規の作品制作ではデータベースを検索・加工することから作業が始まるのです。このシステムは、同じ設定で、同じキャラクター達のドラマが展開される「シリーズ作品」の制作で特に大きな効果を発揮するでしょう。うまく運用できれば、限りなく自動化に近い制作すら可能になると思います。類似の研究は、東京工業大学の安居院猛さんたちもされており、1980年代のNICOGRAPHなどで研究発表('86 NICOGRAPH論文集『データベース駆動型アニメーションシステムの設計』1986.)しておられます。
野口:データベース内のデータを組み合わせるだけで、1つのシーンを作れるようになる可能性もある。長年にわたって日本のアニメ業界が抱えてきた生産性の問題を根本的に解決できるかもしれませんね。
池田:アニメ制作会社が取り組むべき課題は、生産性の向上に加え、もう1つあります。前述の今田さんが東映動画の設立以前から提案していたような、多角的な事業展開の実践です。アニメの制作事業を単体で展開させていたのでは、存続・発展は益々困難になるでしょう。アニメの制作事業は、キャラクター・ビジネスの一領域の事業であると、とらえる必要があります。その上で不可欠なのが、著作権の確保です。近年は漫画原作のアニメが増えていますが、その場合、アニメの制作会社が確保できる権利は非常に限定されてしまいます。
野口:最近の作品は出版社・TV局・オモチャ会社などに権利が分散している場合が多く、事業を展開したくても制作会社の一存では決められませんからね。
池田:アニメの制作会社が著作権を充分に確保するためには、キャラクター・世界観・ストーリーなどを制作会社が中心となって構築していく仕組み作りが必要でしょう。例えば、ライトノベルの作家に協力を依頼するという選択肢も考えられます。最近は漫画だけでなく、ライトノベルのアニメ化も増えていますよね。私の教え子のなかにも書いている人が沢山います。完全な小説の形にするのは手間も時間もかかりますから、その前段階のあらすじだけを依頼すれば良いでしょう。集めた複数のストーリーをWebサイトなどで公開し、市場の反応を伺うのです。並行してキャラクターの原案も公募し、良いものがあれば買い取らせてもらう…。出版など、他の産業界が実践しているやり方を、アニメの制作会社も取り入れていく必要があると感じています。
野口:似たような事例はゲーム業界でも実践されていますね。最近のインディゲーム開発では、アルファ版の段階からインターネット上で公開し、ユーザにテストプレイしてもらい、反応を伺いながらブラッシュアップしていく…というスタイルが増えていると聞きます。
池田:加えて、個々人を取り巻く環境の変化も無視できませんね。私が東映動画に入った時代は、映画会社やTV局がOKを出さなければ、自分が作りたい作品を制作・発表する機会は得られませんでした。ところがインターネットが普及したお陰で、作品の告知から発表、決済までの一連の流れを個人が担えるようになったのです。これは大きな変化と言えます。代理店などを通すことなく、スポンサー企業が個人や制作会社に直接CM制作を発注するケースも出てきました。こうした作家個人と、東映アニメーションのような制作会社がどんな関係を築くべきか、これも重要な課題となるでしょう。彼らと良好なネットワークを築くことが大切だと思います。映像文化の中心が映画からTVに移り変わった時代に匹敵する、あるいは、より強烈な変革の時代を迎えているとも言えるでしょう。
野口:お話いただいたような展開を視野に入れると、教育機関で教えるべき内容も様変わりしてくるでしょうね。
池田:大学で教育すべき内容もおのずと変わってきます。3DCGや作画の技術、情報化社会のシステムの在り方などを教育することも、もちろん大切です。一方で、自分が何を伝えたいのか、伝える中身を豊かにすることも重要になるのです。「作品が問われるということは、その作品の作家が問われるということである。作家が問われるということは、その作家の人生観・世界観が問われるということである」と語った先人がいました。これから作家になろうとする人は、この言葉を胸に刻み、独自の人生観や世界観を突き詰めていく必要があります。それが市場のターゲットの求めているものと合致すれば、ビジネスへとつながっていくでしょう。大学は単に技術だけを教育する場ではなく、そういったことを学べる場であるべきだと、常々主張しています。
野口:そういう個人の作り手が市場に与える影響力が、今後は徐々に大きくなっていきそうですね。今日のお話を通して、幅広い視野をもって考察することの重要性を教えていただいた気がします。有難うございました。
Hiroshi Ikeda
1934年生まれ。東京都出身。日本大学芸術学部映画学科卒業。1959年、東映動画株式会社(現在の東映アニメーション株式会社)に公募の演出助手1期生として入社。以後TVアニメシリーズ『狼少年ケン』(1963〜1965)、『ハッスルパンチ』(1965〜1966)、『魔法使いサリー』(1966〜1968)、『ひみつのアッコちゃん』(1969〜1970)、劇場用長編『空飛ぶゆうれい船』(1969)、『どうぶつ宝島』(1971)などの脚本・監督を担当。1974年、研究開発室へ異動。アニメ制作のコンピュータ化などの研究開発に従事。1985年退社。同年、任天堂株式会社に入社し、情報開発部長としてゲームソフト開発を担当。兼任で株式会社マリオ代表取締役社長、招布株式会社代表取締役社長を歴任。1999年、任天堂を退社。東映動画在職中の1971年から、日本大学芸術学部の非常勤講師としてアニメーションの講座を担当。その後、兼任で女子美術大学、日本大学大学院、沖縄県立芸術大学大学院、女子美術大学大学院(以上、非常勤講師として従事)、東京工芸大学、宝塚大学(以上教授として従事)においてもアニメーション教育・研究に携わる。
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INTERVIEWER_野口光一(東映アニメーション)
EDIT_尾形美幸(EduCat)
PHOTO_弘田 充
LOCATION 東映アニメーション株式会社 中野オフィス