トレンド&テクノロジー / デジタルコンテンツの未来〜温故知新〜
第17回:渡部 健司(東京国際工科専門職大学 デジタルエンタテインメント学科 CGアニメーションコース教授)

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渡部 健司 氏

CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回は日本の最初期のCGプロダクションであるJCGL、ナムコなどに勤め、1980年代中盤以降の日本のCG業界を横断する話から、CGを通じてさまざまなメディアや高等教育に携わることで見えた課題点など、未来志向の言葉を多数いただいた。

【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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1980年代中盤のCG業界 熱気にあふれるJCGL

東映アニメーション/野口光一(以下、野口):まずは渡部さんがJCGLに入社された頃のお話を伺いたいと思います。

渡部健司(以下、渡部):いわゆる80年代のCGというのは、世界でも黎明期と言われる時代でした。まだ、CGプロダクションという存在も出来始めた頃です。1982年のディズニーが制作した「トロン」で背景が初めてCGで制作された時代です。MAGI(マジャイ)、DigitalEffects、Triple-I(トリプルアイ)といったプロダクションです。それらの流れの中でNYIT(ニューヨーク工科大学)の流れをくむプロダクションがJCGL(Japan Computer Graphics Laboratry)でした。当時、フジテレビ出身の金子満氏が東工大、NYITと設立したJCGLは世界的にも有数のCGプロダクションのひとつでした。

野口:その頃、JCGLは既に有名な存在になっていましたか?

渡部:サイエンス系の雑誌では特集されてたりして有名だったんですが、一般には全然知られていませんでした。僕は「ポピュラー・サイエンス」を読んで、『トロン』(1982年)みたいなCGを作れる研究所が日本にも出来たのだと知っていたので、「こんなところに行けたらいいなあ」と思っていたら、求人票が来ていたので驚いて、すぐに応募したというわけです。制作進行として1人だけ採用されました。

ポピュラー・サイエンス
1872年に創刊されたアメリカの科学雑誌。1984年当時はダイヤモンド社から日本版が出版されていた。

野口:渡部さんは当時、コンピュータには触れていましたか?

渡部:ええ。大学の生協コーナーにパソコンコーナーがあって、そこで好きに触れたんです。そこでコマンドを打って絵を描いていたら楽しくなっちゃって、シャープのX1を学生ローンで買いました。これが良かったのは、当時は8色しか出せない機種がほとんどだった中で、X1は16色を出せたこと。そこに僕は飛びついて640×180ドットの画面に鈴木英人とか永井博とかの絵を模写してはほくそ笑んでいました(笑)。文章で生業をと言っていたのにグラフィックに走ったのが何故なのかは自分でもわからないんですけど、とにかく熱狂していました。他にもパソコン雑誌のプログラムページを写してインベーダーっぽいゲームを作って動かしたりしていました。

鈴木英人・永井博
1980年代の日本を代表するイラストレーター・グラフィックデザイナー。マンガ的なハッキリした輪郭線にベタ塗りの画風が特徴。アメリカ西海岸を思わせる風景を描き、シティポップのジャケットにも数多く起用された。

野口:入社された当時のJCGLはどんな様子でしたか?

渡部:さっきの「ポピュラーサイエンス」誌にカラーでバーンと「日本初のコンピュータグラフィックス会社」みたいに載っていて、「これからすごい世界が始まるかもしれない」というワクワク感がありました。当時は社員数60名くらいで、そのうちCGデザイナーが30名くらい。入って驚いたのは、CGデザイナーたちは24時間3交代制で、朝番、昼番、深夜番に分かれていたこと。僕はそのすべての制作管理、マシン管理をすることになるんですが、引かれているスケジュール表は24時間が5分刻みだったんです。当時のスーパーコンピューターVAX11/780が2台あって、そこに十数人のデザイナーがぶら下がってVT100という端末でコマンドを打っていました。フレームバッファは確か640x480サイズが2枚しかなくて画面を16分割して一人一人に割り当てていました。つまりは一人160x120の解像度のワークスペースで作業していたことになります。よく、レンダリングした画像を出す場所を間違えて、他人のレンダリング画像に上書きしてしまい、おいおいって怒られていました(笑)。本当に学校のようなアットホームな環境でしたね。毎週末にはUNIXやCGの勉強会が開かれていたり、玄関のロビーで朝徹夜明けで寝てたら、アメリカのCGプロダクションのトップが突然訪ねてくるようなところでした。そんな世界に向かう窓というか開かれている場所でした。それがなんとなくCGやVFXが世界ではどうなっているんだろうという興味にもつながっていたりして。

野口:お仕事は制作進行だったそうですが、具体的にどんなお仕事だったんですか?

渡部:雑務全般でした。当時は全部フィルムレコーディングだから東京現像所(2024年事業終了)に頼むのですが、朝6時にラボ便が取りに来るのに間に合わないと調布まで制作進行が車を走らせるんです。通常は夕方の便で仕上がりを持ってきてくれるのですが、急ぎで確認したいときは昼過ぎに取りに行くことがあって、2往復する日もありました。あとは、人手が足りなかったので、数ヶ月目でモデリングも担当しました。今でも覚えているのですが、アメリカ西海岸を自動車が駆け巡るという内容のCMで、イラストチックな看板をひたすら作っていました。写真集とかイラスト集を買ってきて、見よう見真似で自分でポリゴンリストを作るとか。当時、今間(俊博)さんが勉強会を開いてくれたり、CGの勉強会を有志が開催してくれたり、マニュアルを残してくれたりしていました。ただのツールのマニュアルではなくて、一般的な教本もない時代に「CGとは?」みたいな、根本から解説する内容のレベルのものを誰かが書いてくれていたんです。僕は全部コピーして持ち歩いて、分からないところを聞き回っていました。2年目から最後まで肩書きは制作進行だったけれど、バンバン仕事を取ってきてなおかつディレクションもやっていたので、周りからはずいぶんと勝手なことをしていると言われました。とにかくすごい作品数で年間百本ぐらいは軽く超えてんじゃないかな?でも、残念ながら、1988年3月末にJCGLは解散ということになりました。 解散の数か月前にPIXARコンピュータが納品されたり、1週間前に池上製の特注のHDフレームバッファが納品されたりと、これからという時期になんでこんなに最先端なことが出来るし、仕事もバンバン入ってきている時に、我々の会社は解散するんだと思っていました。本当に放心状態で解散して、僕はアメリカに放浪の旅に出ました。

渡部 健司 氏

90年代のナムコで3DCGが花開く直前

野口:JCGLの解散後は、ナムコが引き取られましたが、ハードウェアやソフトウェアなどは継承されたのでしょうか?

渡部:そうですね。そこから3ヶ月ぐらいすると、ナムコがJCGLを引き継ぐという話が伝わってきて、ハード・ソフト・人材を受け入れることになる。ついては再雇用のインタビューをしているから、日本に帰っておいでと誘われました。当時、僕は制作進行の肩書のままだったので、プロデューサーとディレクターの肩書でやらせてくれるなら入りますと言って、そのままナムコに入らせてもらいました。横浜未来研究所という、インターチェンジのあたりの場所だったので随分変わりました。システムの方も、当時はSUN、NEWSが中心だったものをシリコングラフィックスに変えようという話になったんです。その時に制作部のシステム、ソフトウェアの構築の責任を僕が任されて、オリジナルのソフトから、当時出始めたCGのソフトウェアの新システムへの転換を模索し始めました。当時はようやくCGの本格的な統合ソフト、Wavefront、Alias、Softimage、TDI Exploreなどが売られるようになってきた時期で、僕はすべてのCG製品を全部チェックして最終的にフランス製のTDI Exploreに決めました。何が良かったかというと、ASCIIで全部のファイルが書き出せたんです。だからパラメータを変えるときは直接テキストを書き直せばいいし、スクリプトを書けばいろいろ読み込めるのが画期的だった。決めるまで3ヶ月くらいベンダーに通い詰めて、決定した記憶があります。当時はまだまだCGソフトがどれが良いかも誰も分からない頃でしかもマニュアルも英文のみでした。とにかくCGのことを一生懸命勉強しながら選定をしました。

野口:当時はどんなお仕事をされていたんですか?

渡部:制作はCMが中心でしたが、たまに大型映像の案件なども入り、1990年「大阪花博」(国際花と緑の博覧会)の郵政共同館の70㎜アストロビジョンでの上映がありました。元々、JCGL時代の上司だった当時リンクスの平正昭さんから依頼を受け、「映像のエンディング部分の大木からトラックバックしていくと巨大なコロニーだった」という壮大な90秒1カットのテイクを作り上げました。ドーム映像でしたが、当時はドーム全体を仕上げるマシンパワーも持ち合わせていなくて、HDサイズの画角をドームの一部に張り付けていた気がします。90秒分のレンダリング時間に1か月以上かかったと記憶しています。ナムコ時代にはシーグラフに行かせてもらったり、TDI本社視察に行かせていただいたり、まだ20代だった自分にとっては貴重な経験をたくさんさせていただきました。

渡部 健司 氏

野口:その後、独立された形ですか?

渡部:そうですね。ナムコで3年過ぎた頃、周りのメンバーがどんどんゲームの開発に異動していきました。当時、ナムコではセガに続いてポリゴンゲームをオリジナルのハード基盤で開発を始めていました。僕は特撮も好きだったから、とにかくVFXをやりたかったんです。 それに対して当時のゲームはスペック的にハイエンドではないし、かといってクオリティを求めているわけでもない。確かドライビングゲームだったと思いますが、一画面で数百ポリゴン以内にしなければならず、あの頃の僕たちが望んでいたハイエンドなCG映像とは全く違うものだったので、自分としてはとても反発していたのを覚えています。ナムコ時代の最後の仕事は『ギャラクシアン3』という3Dガンシューティングゲームです。最大28人同時プレイ可能な大型アトラクションで、28人が背中合わせになった外側に映し出す映像なので、サイズがとんでもなく大きいんです。プレイ時間は3分だけど映画2時間分ぐらいの量がありました。それをどうやって作るかとなったときに、僕はSGIのグラフィックボードでレンダリングしようと提案しました。今で言うリアルタイムレンダーに近い発想です。実際は数秒でレンダリングして数秒でコンポジットしながら出力するという形です。このプロジェクトの初期に携わって退職しました。それが92年でした。

野口:その後はどんなお仕事を?

渡部:それまでのCMを中心とした受注制作は変わらずでした。ただ、今度は営業から、プロデュース、ディレクションまですべて自分一人でやらなくてはなりませんでした。シリコングラフィックスのマシンとソフトウェアを中古で購入して制作を始めました。

渡部 健司 氏

独立後、アニメ特撮業界を経て横浜へ

野口:D/Functionを設立したのはどんなきっかけから?

渡部:個人事業で行うには規模が大きくなりすぎてしまったんです。TV局関係の仕事もそうだったんですけど、月極契約みたいなこともいくつか走り出してしまったので、会社として請けることになりました。その後、1997年にアニメの旭プロダクションに呼ばれて、仕上げのペイント部門をデジタルにしたいという相談を受けて、スタジオを作ることになりました。新たにワンフロアのスタジオを作って、そこにシリコングラフィックスのO2ワークステーションをいきなり20台以上も導入しました。そこで作ったのは『モンキーマジック』(1999年テレビ東京、米国で放映)という作品で、仕上げにはAnimoを使って作られました。いわゆるセル塗りというのは、それまで影色にしろハイライトにしろベタ塗りだったわけなのですが、これは初めてペイントの中にボカしを入れることができる機能が備わっていて、それで柔らかい感じを出すことが出来ました。それがO2で動くから処理も早い。当時のアニメ業界では「RETAS!」も使われ始めていたけど、こちらは全く違うUNIXのワークステーションを使わなければいけないから、新人教育を一から始めました。

Animo
デジタルアニメ制作ソフト。
開発Cambridge Animation(英)。2009年にToon Boom Technologies社に買収

RETAS!
デジタルアニメ制作ソフト。開発セルシス(日)。90年代半ばから10年代にかけては日本のアニメ業界ではRETAS!がデファクトスタンダードだった。現在のCLIP STUDIO PAINTの前身。

野口:その後にデジタルガーデンの立ち上げや円谷プロダクションのCG・VFXに参画されましたが、その時の様子をお聞かせ下さい。

渡部:当時、葵プロに呼ばれて新しいCG、VFX、編集ポスプロを立ち上げるので参加して欲しいと言われました。大崎の倉庫を一棟ポスプロとして機能させるというものでした。その時もシステムからソフトウェアの選定、リクルーティングまでをおこない、短期間でプロダクションとして立ち上げました。ひと段落した後、円谷プロダクションに呼ばれて今度は新しいTVシリーズを手伝ってほしいと言われました。当時は本社があった祖師谷の敷地内に少人数のフリーランスのCGデザイナーが集められているという状況でした。当時の専務だった高野宏一さんからデジタルスタジオの開設をお願いされて、すぐ隣駅の喜多見にスタジオを新規に作って、そこでもリクルーティングからシステム導入、ソフトの選定まで全部を行いました。15、6人規模のTVシリーズ専用のスタジオです。シリーズがスタートした当初は撮影部や制作部とはなかなか馴染めずアウェイな感じっだったですが、少しづつCGIやVFXに対する認知や発言権も認められていきました。90年代終わり頃から新たな試みとして着ぐるみの3次元レーザースキャンをやったり、モーションキャプチャー、プリビズをやらせてもらったりしました。特撮の現場は楽しかったですね。爆発やハイスピード撮影、ミニチュア模型、ワイヤー操演やモーションコントロールカメラなどSFXの現場を目の当たりにできた貴重な体験でした。そして、このあたりの仕事を終えたときに僕が思ったのは、「CG屋さんと名乗っちゃダメだな」ということです。

野口:どういうことでしょう?

渡部:例えばCM案件で「CG屋さんです」と名乗れば当然、CGの案件が来るわけです。それを僕らも違和感なく受けいれていたのですが、「ウルトラマン」シリーズなどに携わると、SFXやVFXとの絡みがあったり、モーションコントロールカメラも使ったり、ミニチュアを交ぜたりすることもあります。パイロエフェクトを出す時に、現場で爆発の煙を作るか、CGで作るか。こういった領域をまたぐ場面が出てきたときに単に「CG屋です」と名乗っていると、「CG屋が特撮に口を挟むな」と、話を聞いてもらえないんです。なので、僕は途中から意図的にCGIスーパーバイザーとか、VFXスーパーバイザーと名乗るようにして、CGという言葉を消すようにしていきました。

野口:その後、横浜に拠点を移されて活動をされていきましたが、そのきっかけは何でしたか?

渡部:それまで都心に事務所を構えていましたが、少し仕事に疲れて来ていたのと、環境を変えたいという思いがあり、2004年に思い切って横浜に拠点を移しました。横浜って小さな田舎の村なんですよ。横浜に移るとなぜかいろんな人が周りに寄ってきました。新聞、テレビ、メディア関係者、地元のクリエイター、文化人たち。横浜は東京とは違って良い意味で集積度が緩い、その緩さのおかげでいろんな人と出会うきっかけが出来ました。とにかく人と人が繋がっていくスピード感が違っていました。僕も横浜から何か情報発信しなければと、すぐにHDカメラを担いで横浜を撮り始めました。それが横浜開港150年史をCGで再現した『Rise in the World』というショートムービーでした。その映像は数年後の「横浜開港記念式典」でも上映していただきました。横浜ではアート活動や市の行政の方々、文化芸術振興の関係者、政治家、メディア、クリエイターとの出会いがたくさんあり、恩返しするような気分で「ハマクリ」(ヨコハマクリエータズミーティングサロン)を始めました。2004年の6月のことです。それから5年間、毎月欠かさず「ハマクリ」を開催し、60回続けました。また、「ハマクリ」を通じていろいろな人とも出会いました。その一人が泉邦昭さんです。彼は3Dコンソーシアムの事務局をやられたりして3D立体映像に詳しい方でした。私も以前から3D立体を追いかけていたので、意気投合してコンソーシアムやDCEXPO、国際科学映像祭などの実行委員、企画委員などでご一緒させていただきました。

泉邦昭氏
3Dコンソーシアム会長、3DBiz研究会アドバイザー、米国SDFX(旧StereoD)の設立者、3Dスーパーバイザー

渡部 健司 氏

大学教員への転身とイマーシブコンテンツにかける未来

野口:その後、お仕事のキャリアをアカデミックな方に切り替えて行かれました。

渡部:経緯は2011年の震災が大きかったです。それまでの案件がすべて吹っ飛び、受注制作が動かない時期がありました。その時にご縁があって大学の特任の話が来ました。不安もありましたが、人材育成や人材教育はスタジオの立ち上げ時に結構やっていたので、興味があったんです。

野口:渡部さんが取り組まれている「デジキャン!」について教えていただけますか?

渡部:「デジキャン!」には2つの時期があります。ひとつは大学での活動の前、先ほどの「ハマクリ」を中心にした「デジキャン!」DigitalCamp!=デジタルキャンプ!の時代で、クリエイターや関係者がキャンプをするように集いましょうというもの。これは2004年から2011年までの時期でした。もうひとつは2012年、東京工科大学の時に始めたプロジェクト デジタルキャンパス=「デジキャン!」でした。大学に籍を置いてみると、今の高等教育の実態や日本の教育事情が見えてきました。シラバスやカリキュラムに縛られて柔軟な教育や時代に即した内容がどんどん立ち遅れてしまっています。そのために東京工科大学の時に特別演習プログラムを立ち上げました。当時から東京工科大学には「プロジェクト演習」というプログラムがあったのですが、その形でいくつかのプロジェクトを実施しました。単位はあげませんが、1年生から自由に受講できる演習プログラムでした。多い時は週7回、ほとんど毎日放課後の時間に集まって、企画の議論をしたり、講義をしたり、コンテンツやイベントを創ったりしました。当時はコンテスト荒らしと呼ばれたりして、一つのコンテストの入賞のほとんどを獲ったりしてました。その時のベースが現在までの大学での活動に生きていると思います。

渡部 健司 氏

野口:現在の大学教育における問題・課題点についてどのように考えていますか?

渡部:大学における高等教育カリキュラムの限界は、時代に即して変化させるのが難しいことです。シラバスやカリキュラム自体が練られてからリリースするのに2~3年かかりますり、実行すると変更するのに1ターム(4年)が過ぎてしまいます。今のエンタメ、コンテンツの世界で4年というのは長いスパンです。現在のAIなどもそうですが、時代に追いついた教育をどのように展開していくのかが問われていると思います。そこで、2021年には大学の中ではいち早くバーチャルプロダクションの研究や企業との共同プロジェクトを走らせ、すぐに共同の勉強会、大学の中でバーチャルプロダクションの構築や実証実験を始めました。2022年にはInterBEEにブースを出展をして実際にVPを用いたライブ配信を行ったりしました。バーチャルプロダクションは意外とCG、VFX、プレビズ、パイプラインの検証には非常に有効な技術だと考えます。

野口:現在取り組まれているイマーシブコンテンツ・ソサエティに関して教えて下さい。

渡部:2024年から大学の枠を超えて日本のコンテンツをもっと元気にしたいと思ってイベントを始めました。最初に始めたのが「イマーシブ・ダークナイト」というイベントです。イマーシブコンテンツというキーワードで人の交流や情報の共有、コラボレーションを意図的に作り出していくものです。僕とVR映像作家監督の渡邊 徹さん、小田急電鉄が作ったXRコミュニケーションハブ「NEUU」の坂田和也さんの3人が中心となって、ほぼ2か月おきに開催しています。最初はApple Vision PROが出た時に一度ミーティングサロンを開催したところ、意外と人が集まってくれて、それを機に継続している形です。いわゆるCG、VFXといったものとは違い、VR/XR、スペーシャル(空間ビデオ)、大型映像、マルチビジョン、ドームスクリーン、立体音響、リアルタイム系、バーチャルプロダクション、プロジェクションマッピング……これらをジャンルと呼ぶのか要素と呼ぶのか難しいところですけど、これまでひとつのジャンルだけで集まっていたものをすべて、イマーシブという横串を刺すというか束ねるという形で、もっと違った化学反応が生まれるかもしれないと思ってます。

渡部 健司 氏

野口:ナムコ時代にただのゲームは嫌で、これからはハイエンドだとおっしゃっていたことに、ようやく時代が追いついたような気がします。

渡部:そうですね。最前線や最先端を追い続けてきて、ようやく全部揃ったような感じがしています。その意味でも、もはやCG屋さんとかVFX屋さんといったフィールドではないんだと思います。イマーシブで掲げたジャンルに関しても自分がほとんど通過してきたもので、そこにApple Vision PRO のような新しいものが出てきても、自分としては違和感なくすんなり入ってきているし、バーチャルプロダクションや生成AIみんなでも勉強したり実験したりしながらやっていってるきがします。

野口:その先を渡部さんがどのようにご覧になっているのか興味があります。

渡部:まさに今探っている最中です(笑)。イマーシブコンテンツ・ソサエティのポータルサイトにはこれまで自分たちが集めてきたイマーシブおよびデジタルに関しての情報をまとめて上げています。バレンというポータルサイトのページなどでこれまでの情報を集積しています。

野口:ここまで周到に準備されているのはどんな情熱から?

渡部:今って、学生や若い人プロ向けの新しい映像や技術表現の教科書が見当たらない気がしています。そのために大学でもそうですけど、学生たちと一緒に教科書というかテクストを作っています。それはソサエティでも同じでもっとプロ向けのハンドブック=教科書を作っていくというか残していかないといけないと思っています。そのために勉強会や分科会、セミナーをもっとやりましょうとか、アワードみたいなのをやりましょうといろんなところに声をかけていています。私は今、教育の基盤や教育の体制というものが非常に大事だと考えています。何をどこで教えるのか、そこではどんなレベルのどんな教育の中身(コンテンツ)が必要なのか。そこに経産省なり文科省なり文化庁なりが支援してくれるような枠組みが作れればいいと思っています。

野口:若いクリエイターへのメッセージがあればお聞かせ下さい。

渡部:もっと過激にもっとリアルな冒険をして欲しいと思います。コンテンツやエンタメの制作環境や情報がこれだけ溢れている世の中になったけれども情報世界というバーチャルな世界でそれらを享受しているのではなく、実際のリアルな現場に足を運んで新しい体験、体感をしたりする元気さがないと世界の最先端からどんどん取り残されて行ってしまうと思います。学校みたいな枠だけで学んでいてもダメで、現場はもっと先に進んでいます。「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」です(笑)。プロの現場にもっと飛び込んでいって、生な体験をもっとして欲しいですね。

渡部 健司 氏

渡部 健司氏

わたなべ けんじ。東京国際工科専門職大学 デジタルエンタテインメント学科 CGアニメーションコース教授(取材時)。現在は、同大学名誉教授。

早稲田大学 文芸学科 卒業。株式会社ジャパンコンピュータグラフィックス・ラボ(JCGL)、株式会社ナムコ(現・株式会社バンダイナムコエンターテイメント)を経て独立。長年に渡りTVCM、PV、映画、番組タイトルなどのCG、VFXを中心としたデジタル映像制作に従事。約10年間に渡り、「ウルトラマン」の映画・テレビシリーズに携わる。このほかに、東京放送、旭プロダクション、AOI.Pro、円谷プロなどのCGスタジオやCG部門の立ち上げに参画。その他、経済産業省、デジタルコンテンツ協会WGなどを歴任。デジタルコンテンツ白書執筆、デジタルコンテンツEXPOなどのイベント企画演出、3D立体映像イベント、イマーシブコンテンツ・ソサエティ主宰のひとりでもある。

フィルモグラフィー
1991 NHKアインシュタインプロジェクト
1993 NHKスペシャル『天才ザルカンジ』
1999 NHK大河ドラマ『元禄撩乱』オープニングタイトル
2001 TVシリーズ『ウルトラマンコスモス』
2001映画『ウルトラマンコスモス』
2004 映画『ULTRAMAN』
2006 映画『ウルトラマン兄弟&ウルトラマンメビウス』
2008 映画『大決戦超ウルトラ8兄弟』
2009『海都横構想2059』横浜開港150周年式典映像2010『ともいきがたり』法然上人大遠忌800年記念オープニング映像
2019 Point0(ポイントゼロ)コワーキングスペース
2019『クラウドバンク』TVCM「待つ、資産運用」
2020 NETFLIXドラマ『FOLLOWERS』

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INTERVIEWER :野口光一(東映アニメーション)
EDIT :日詰明嘉
PHOTO :弘田充
LOCATION :東京国際工科専門職大学

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