トレンド&テクノロジー / デジタルコンテンツの未来〜温故知新〜
第14回:木村俊幸(LOOPHOLE代表/現代美術家/VFX監督/マットアーティスト)
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CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はマットペインターとしてアナログの時代から活動を始め、デジタル時代になってからも多くの映画で活躍を続ける木村俊幸氏に登場いただいた。現在はVFXスーパーバイザーや現代美術家としても活動を続け、絵画だけでなく立体造形も作り上げる木村氏は、なぜアートの世界と映画の世界の両立を続けるのか。そこにはさまざまな先達から教わり受け継がれてきた哲学があった。日本映画の貴重なエピソードから芸術活動とAIの未来までたっぷりと聞いた。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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さまざまな師に導かれて映画の世界へ
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):木村さんが画の道を志したきっかけは何でしたか?
木村俊幸(以下、木村):長岡秀星というSFイラストレーターをご存知でしょうか?僕が小学生の頃に大人気だった方で、彼に憧れて自分もイラストレーターになろうと思ったんです。その頃、ある機会に知り合い経由で、イラストレーターのもとのりゆきさんさんを紹介いただきました。今で言うところのコンセプトアーティストとなります。彼の家に遊びに行くと、仕事で描いた『宇宙戦艦ヤマト』の設定画とか、『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』の美術設定などを見せてもらえました。本棚には『スターログ』でも『宇宙船』でもない、それまで見たことがないような海外のSF雑誌や洋書の画集などが並んでいて、読み放題でした。そのうち僕も自分で描くようになり、デッサンを描いては見てもらったりしていました。
長岡秀星
日本を代表するイラストレーター。アクリル絵具やエアブラシを駆使した緻密で光沢感のあるSF的ビジュアルを得意とし、宇宙や未来都市を題材にした作品で高い評価を受けた。1970年大阪万国博覧会で展示用イラストレーションを担当した後、活動拠点をアメリカに移す。大手企業の他アース・ウィンド&ファイアーらのレコードジャケットを担当。他にも『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』の劇場ポスターを描いた。日本のSFイラストレーションを世界に広めたパイオニア的存在。(1936–2015)。

野口:最初の師匠的な存在だったんですね。
木村:かなり影響を受けましたね。それで美大を目指すわけですが、美大受験向けとして学ぶのは、ルノワールやセザンヌ、ピカソなどの西洋画だったのですが、途中から「シネフェックス」などのSF映画雑誌にハマってしまい、二浪することになりました。そこで、もとさんが言うわけです。「それじゃダメだ。大学でキュビズムを勉強し直せ」と。それで、渋谷にある美大向けの予備校に通い始めたのですが、教えてくれたのが先生がO JUNさんでした。学校の屋上で先生がスケッチブックを開いていたので、「それって何の絵ですか?」と尋ねると、映画『帝都物語』のスケッチだというんです。大学へ行ってアーティストの道に行こうとしていたのに、僕はここでまた「こんなことやめて、早く映画の道に行きたい」と思うようになってしまったんです。
O JUN
1956年東京生まれの画家。東京芸術大学大学院美術研究科油画専攻修士修了。スペインやドイツ、アルゼンチンにも滞在し活動を行う。鉛筆、クレヨン、水彩、油彩と様々な具材を用い、人物や風景などをモチーフに、明るさ、ユーモア、静けさ、不穏さなど様々な要素がまじりあった独自の世界を描く。2025年は10月から11月にかけて所属するミヅマアートギャラリーで個展を開催。
野口:美大受験をせずにそこで映画業界に飛び込むという選択肢はありませんでした?
木村:いえ、そこでまた導いてくれる方がいて、大竹伸朗さんを池袋のアールヴィヴァンで見かけた際に相談したら、「映画と絵の両方やってるのか、絶対に映画も絵も両方やれ」とおっしゃっていただけて、頑張って日芸の油絵に入学をすることができました。
大竹伸朗
1955年東京生まれ。武蔵野美術大学油絵学科卒業後、絵画・写真・コラージュ・立体・音楽など多分野で活動する現代美術家。80年代初頭から新しい絵画表現を牽引し、公共芸術も手がけたり、絵本や小説なども発表する。現在は愛媛県宇和島を拠点に、ジャンルを越えて独自表現を追求している。2023年、第65回毎日芸術賞を受賞。
野口:念願の美大生活が始まるわけですね。
木村:でも大学ではあまり馴染めませんでした。そんなある時、8ミリフィルムで自主映画を撮っていた女の子から、背景画を頼まれたんです。それが学祭で上映されたのを見て「良いものだな」と思えて。やっぱり映画の仕事をしたくなってアルバイト求人誌を見て、マリンポストプロダクションに入りました。
野口:最初はどんなお仕事でしたか?
木村:いきなりは映像に携わらせてもらえず、写植打ちの手伝いからでした。酢酸の匂いがキツくて、すぐに辞めたくなったのですが、暗幕の奥の方でおじいさんがスプレーガンで絵を描いていて、「木村君、興味あるの?」と、聞いてきたその方が石井義雄さんだったんです。僕も中学の時からスプレーを使っていたので、石井さんに弟子入りをしました。その横に大きな機械があって、三瓶一信さんという方が来て、ガシャンガシャンと作業をして定時になると帰っていく。最初は何をやっているか分からなかったのですが、本を読むとそれがマットキャメラだと分かりました。
石井義雄
1932年生まれのマットペインター、CGデザイナー。東京芸術大学在学中から東宝で働き始め、円谷英二の推薦で合成部門へ。代表作に『ゴジラ』(1954年)、『大巨獣ガッパ』、『さよならジュピター』、『連合艦隊』、『ゴジラ』(1984年)、『ゴジラvsキングギドラ』など。
三瓶一信
1922年生まれの合成技師。円谷英二に誘われ1945年に東宝へ入社。『キングコング対ゴジラ』や、『ゴジラvsモスラ』など多くの作品に参加。第11回日本アカデミー賞特別賞特殊技術賞を受賞。
野口:仕事を通じてだんだんと映画業界の仕事を覚えていかれていますね。
木村:そんな頃、イマジカ特撮部から上杉裕世さんが初めて描いたテスト映像が送られてきて、衝撃を受けまして。こっちはまだ勉強中の折に、ものすごい片鱗を見せつけられて、仕事をしながら社長に「見学しに行きませんか?」と提案したりしたのですが、「まだ早い」と言われたりして(笑)。師匠の石井さんがアトリエに来いというので言ったら、「たしかに、映画の仕事が来たらきちんとこなすことは大事である。でも映画の仕事がないときも君は画家なんでしょ?」と、おっしゃってくれたんです。その時の僕はちょっと気持ちというかアイデンティティが分離していたので、スパッと分かりやすく説明してくれたのが嬉しくて、「やっぱそうなんだ」と、確信みたいなものを得ましたね。
上杉裕世
1964年、広島県出身。武蔵野美術大学油絵科を卒業後、1987年にアメリカに渡り、1989年にILMに入社。『スター・ウォーズ』シリーズ、『ジュラシック・パーク』、『アバター』など多くのハリウッド大作映画でVFXを手掛ける。1993年『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険 』でエミー賞受賞。2003年『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でVESアワード受賞。
野口:先程から色んな方が絵画と映画のアートの両立を何度も説いてくれていますね。
木村:そうなんですよ。要は何遍言われても人の話を聞いていないんです(笑)。

黒澤監督やさまざまな巨匠との仕事から学んだこと
野口:初めてのお仕事は何でした?
木村:東映の『女バトルコップ』(1990年)という特撮ビデオでした。マリンポストの社長が「この子に背景画を描かせてほしい」と推薦してくれたのが、僕のデビューでした。『女バトルコップ』も後に海外で根強い人気を得たんですよ。
野口:それが何年生の頃でしたか?
木村:大学2年の頃でした。そのあと、いきなり『まあだだよ』の話が舞い込むんです。
野口:あの黒澤明監督の!
木村:そこで「監督と会うか?」という話が出たときに、僕は「会わない」と言ったんです。敢えて。
野口:もったいない!
木村:今思えばね。若気の至りですね(苦笑)。でもそのときの僕としても考えがあって、巨匠に対してガキンチョですからかわいがってくれたと思うんです。でもそれだと「食われてしまう」と。だったら、会わずに提出する絵だけで勝負したかった。
野口:なるほど。
木村:そのとき『まあだだよ』の特撮担当だった中野稔さんが、アドバイスをくれたんです。「木村君ね、4枚描いたらだいたいOKだから」と。「1枚目は監督が言った通りのもの。2枚目は木村君が好きなように描け。3枚目は絶対に通らない絵を。そして4枚目は木村君が描きたいものと監督のオーダーを合体したものを描きなさい」と言うんです。
中野稔
日本大学芸術学部・大学院出身の光学技師。円谷プロダクションで『ウルトラQ』、『ウルトラマン』各シリーズほか、数々の特撮作品に参加。1972年にデン・フィルム・エフェクトを設立し、映画・テレビ業界の視覚効果の発展に大きく貢献した。2016年に文化庁映画賞を受賞。(1939年ー2021年)

野口:どういうことでしょう?
木村:僕も「3枚目はいらなくないですか?」と思ったんです。でもそれは捨てるための案で、そうすると監督は絶対に4枚目を選ぶという。その通りやってみたら見事に4枚目が選ばれて。彼はデン・フィルムの叩き上げの方なのでそのあたりの塩梅や心理が分かっているんですね。黒澤監督の厳しい現場で4テイク目でOKが出るなんて奇跡的で、ベテランの方から驚かれました。その後、『遠き落日』に参加したあと、マリンポストの社長がイマジカ特撮部を紹介してくれて、フリーとして入ったのが『REX 恐竜物語』でした。
野口:『REX』のVFXはリンクスが担当されていて秋山貴彦さんや瀬下寛之さんが所属されていましたよね。
木村:秋山さんはもう有名人で僕もサインを貰いましたよ(笑)。イマジカの上のフロアにいらっしゃいました。「どうやらリンクスというCGのチームらしい」と、記事で知るくらい、何をやっているかは分かりかねました。その後、大林宣彦監督の『水の旅人 侍KIDS』(1993年)です。ここではカメラマンの阪本善尚さんの存在が大きかったです。スタッフに優しい方で、僕らがあるとき九州の山地のマット画を描いていると、「九州の山っていうのは、なだらかな山なんだよね」と教えてくださるんです。そのとき僕らが描いていたのはもっと猛々しい山だったので描き直しをすると、それを見た大林監督が「九州の山っていうのは、もっと猛々しいんだよ」って(笑)。
野口:どっちの言う事が正しいんだか(笑)。
木村:そうなんです。それが現場のイニシアチブなんです。つまり、映画というものは基本的に監督のものなんだけど、現場のその時々によってどちらかの意見が強くなったり、弱くなったりする生き物であるというのが、薄っすらと分かってきました。結局、どっちになったんだっけなぁ……。
野口:次は『写楽』ですか。
木村:はい。徳永徹三さんがデジタルを推進して旗振り役を担い、イマジカの特撮部を「D-SHOP」という名前にしたときの作品です。篠田正浩監督が初めてD-SHOPに来たときに、監督はニコニコして「良い絵だね~」とか言いながらやってきて、「君たち、『ディック・トレイシー』を知っているか」とおっしゃるんです。もちろん知っていますが、今やっているのは『写楽』の仕事ですから、全然テイストが違います。それでも監督は言うんです。「あの映画はポップなコミックの色を映画に持ち込んだ作品なんだよね。僕はそういうのは全然OKだから。君たちが描いているリアリズム、ああいうのはもう十分じゃないか」。そうおっしゃるものだから僕らも面食らっちゃって。もう作業が進んでしまっているのに、アートディレクションは変えられないから、折衷案でいこうと。富士山はラインだけ描いて、後はちょっと少し霞ませる。雪を描くと、これは”リアリズム”だからシャドウにする。どっちつかずにしなくちゃいけなくて、オロオロしちゃいました。
ディック・トレイシー
1931年に連載が開始された新聞マンガ。アメリカン・コミックのクラシックとして長く愛されている。緻密な科学捜査や未来的ガジェットの導入でも知られ、古くからメディアミックスを展開。1990年にウォーレン・ベイティの主演・監督作られた映画は真っ黒な影の面積が多く、アメコミのデザインを実写で行おうとした意図がうかがえる。
野口:つまり、浮世絵っぽい画づくりを狙っている?
木村:そうなんです。これがどう考えても実写と合わないんですよ。そのズレがどうしても克服できなかったんですけど、監督にとっては馴染むとか馴染まないとかは、どうでもいいことだったんです。あの経験はショックというか、インパクトでしたね。また、マリンポストでは『ゴジラ vs モスラ』をアナログのマット合成をしていて、すると中野さんが来て、「フィルムっていうのはね、見えるとこだけ描けばいいんだよ」とおっしゃる。フィルムには粒状性というものがあって、見え方によっては全部描く必要がなかったりするんです。それを「真面目に描かなくても、もっと雑でも大丈夫なんだよ」という。このあたりで「描くこと」に対するさまざまな考えを学んだ気がします。

デジタル時代のマットペイントと紀里谷和明監督作品
野口:1997年はハリウッド映画の『SPAWN』に参加されましたが、これはどういう経緯で?
木村:EYEdentifyの松木靖明さんが呼んでくれました。この頃はもう完全にフリーで、「LOOPHOLE」という名前で活動し始めていて、最初はデジタルでやるかどうかも分からなかったんですけど、相手がILMとなると不安になって、すぐにPhotoshopを購入しました。求められていたのが地獄の画だったので、イクラとか筋子をスキャンして、その上からオーバーレイで描いてマット画に仕上げました(笑)。After Effectsを使ってVコンテみたいなものも作ったら、監督の方で「こいつには任せても大丈夫だ」と認められたみたいで、じっくりと取り組める余裕が生まれました。全体的に驚くほど順調な仕事ができました。
野口:Photoshopへのスイッチはスムーズにいきました?
木村:スキャンが遅いとか解像度が低いとか、ペンタブがなくてマウスでカチカチやるといったハードウェアに起因する問題はありましたが、画的な部分では問題ありませんでした。というのも、絵というのは光と陰があって、どこに筆を置くかだけなんですよ。それを筆で置くのか、クリックで置くかだけの違いで、そこに違いはさほどありませんでした。ただ、人には手癖というのがあって、早く描けると逆に溺れてしまう場合もあるんです。そのぶん、デジタルでゆっくり描くというのは良い形でしたね。undo、redo、レイヤー構造など、手描きにはない利点があって、良いことづくめでした。
野口:その後のお仕事として毛色が変わっていて興味深いのが、PlayStationの『弟切草-蘇生篇-』(1999年)です。
弟切草
テキストと音響演出を中心として展開させるゲームジャンル「サウンドノベル」の草分け作品。1992年にスーパーファミコン用ソフトとして発売され、ムービーやグラフィック、システムに改良を加えた「-蘇生篇-」が1999年にプレイステーション用ソフトとして発売された。脚本:長坂秀佳。プロデュース:中村光一。
木村:『SPAWN』が終わった後は、AVANTに出入りしていたのですが、そこで『風来のシレン』のCMのマッピングや背景描きの仕事をした後、チュンソフト(当時)の中村社長が「好きに描いて良いから」と、PS用に『弟切草』の背景を描き直すお仕事を発注してくれました。サウンドノベルなので分岐が無数にあって、1年間ひたすら絵を描いていました。そのとき僕のスケジュールを管理してくれたのが、当時AVANTにいた伊藤有壱さんだったんです。
伊藤有壱
1962年東京生まれ。東京芸術大学美術学部デザイン科卒業。NHK『ニャッキ!』など、立体アニメーションを中心にCM、MV、短編映画など幅広く手がける。国内外で多数の受賞歴を持つ。東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻教授。
野口:この後はどんなお仕事をされましたか?
木村:『ウルトラマンティガ』で、毎日のようにマット画を描いていました。特撮シーンは16mmフィルムでしたが、マットは完全デジタルでした。その後は『フシギのたたりちゃん』。この頃、角川書店は夏休みに3作品を上映する「夏の角川まんが大行進」をかけていて、そのうちの1本の企画です。当時、プロモーションビデオの仕事で矢沢永吉さんを担当した岩沢清さんに監督をしてもらい、背景周りは僕がすべて担当しました。30分の作品で予算が少ないためセットも2面しか作れなくて、僕がデザインして後はマットペインティングでした。Flameで合成するときに僕がマットペインティングを描くわけですが、魔法の世界の話なので、イタリア未来派みたいなちょっと変わった構成主義的な風景にしてしまいました。実写で初めて自分でコンセプトから立てて好きな画だけを描いた、思い出の作品です。このときの経験が宇多田ヒカルのミュージックビデオ(『Final Distance』、『traveling』、『SAKURAドロップス』)でのコンセプトデザインの仕事に繋がります。
野口:紀里谷和明監督による作品ですね。VFXスーパーバイザーを務められた野崎宏二さんのインタビューを掲載しました。
木村:野崎くんのN-DESIGNは、すでに何人ものスタッフを引き連れていて、こちらは寄せ集めのパルチザンみたいなものでしたよ(笑)。でも紀里谷さんのすごいところはあくまで平等に扱うんです。アイディアが面白ければ採用、だめだったらボツ。野崎くんが大変だったのは、僕らが出したマットペインティングを引き受けて合成をやりつつ、自分たちもアイデアを出さなければいけなかったんです。みんなボロボロになりながら作っていたときに、編集室の廊下でお互い疲れ切った状態の中で姿を見たのが、彼との初めての出会いでした。二人で抱き合って泣きながら「俺ら、頑張りましたよね」って労い合いました。

野口:戦友ですね。いい話だなー(笑)。
木村:その後、紀里谷さんが「映画やろうよ!」と言い出して、何かと思えば「『CASSHERN』をやろう!」だという。僕は気持ち悪いデザインが大好きだから、その場でキャシャーンの背中をスケッチしたりして、お互いに盛り上がって。アメリカントイの造形をやっていたKenさんとか、特殊メイクで活躍されている百武朋さんを巻き込んだりしていきました。あるときCGアーティストの庄野晴彦さんとゲームの仕事の繋がりで知り合って「ぜひ一緒にやりましょう」となったんです。その足で紀里谷さんのところに行ったら、彼がまさに「こういうシャシンを撮りたい」と挙げていた人物こそが庄野さんだったんです。あと、その頃同時に樋口真嗣さんとこに会いに行って、「デヴィッド・リンチ版の『DUNE』みたいなやつを作りたい」と相談してバトルシーンの絵コンテを描いてもらったりしました。もちろん野崎くんにも入ってもらって、「これでVFXチームの戦力は整った」となり、プロデューサーと予算のやりとりをしつつ、最終的に「タタリちゃん」のやり方で、僕が全編マットペインティングを描いて、野崎くんのところでCGをまとめてもらうやり方となりました。
野口:現場の様子はいかがでしたか?
木村:2ヶ月ぐらいでしたが、とにかく大変な日々でしたね。僕にとって全編スーパーバイザーを担当するのは初めての経験で、第2班の監督も兼任していました。現場では樋口さんが素材撮りのコツを教えてくれたりと、さすがの先輩ぶりでした。そこでもやっぱり野崎くんがボロボロになったり、紀里谷さんにはイタリア未来派のコンセプトアートを見せて、「もっと面白いことやりましょうよ」と、モチベーションを保ったり、カレル・ゼマンとかのアートムービーの話をいっぱいして、「とにかく普通じゃない映画を作ろうぜ」と奮い立たせてたりしていました。
MATIMとは何か。現代美術家としての活動
野口:あとは近年の美術家としての活動である「MATIM(メイティム)」というプロジェクトについて伺いたいです。
木村:おお、そこを聞いてくれますか。
野口:これはライフワークのような活動なのでしょうか?
木村:まさにそうです。簡単に言うと、これまで僕は常にクライアントワークをしてきました。一方、それと並行して誰に頼まれてもいないものを作り続けている。この行為は何なんだろうなと、ずっと疑問だったわけです。このアトリエにも気味の悪いものがたくさん並んでいて、家族からも不評を買ってまでする活動の動機は一体何なのか、あるとき考えが至りました。「物事はすべて何かと隣り合わせになっているのではないか?」と。例えば、生死の隣り合わせだとか、日常と真逆の夢を見るといった、「隣り合わせ」のことを"mate"というわけです。ルームメイトとかのmate。それを使って「MATIM」という造語を編み出したんです。まぁ、人によってはこれを「インスピレーション」という言葉で表現するのかもしれないけど。
野口:内的な動機みたいな。
木村:うん、でもたとえば、おばあちゃんの霊が出てきて、「絵を描きなさい」とかって言ってくれたら、わかりやすいんですけど、そういうことばっかりではないですよね。今日はカラスが俺のことをやたら見ている気がするから、「これは描けってことだな」というメッセージを受け取ったりもするわけで。そうした、ある種の知覚できないトータルネットワークみたいなところから発注を受けて、その挿絵画家として僕は作品を作っているという形にしました。発注書もギャラもないけど(笑)。とにかく作る。それはときに画集であったり、ときに小説であったり。すると東京現代美術館に所蔵されたり、出版の依頼が届いたりしました。
野口:これまでに29回も開催されていますが、いつ頃からどのくらいの頻度で?
木村:30代ぐらいから年に何度か行なって、今回が20周年だったので、うちに関わった作家50人ぐらいと府中市美術館とギャラリーで展覧会を開催しました。「LOOPHOLE」でプロデュースしてきた若い子も結構な人数にのぼり、あちこちで活躍するようになって、ホントはもっと静かに行うはずが、結構な賑わいの20周年展覧会になりました。オブジェ類は家族から嫌がられるので、もう画だけにしようと思っていたら、村上隆さんとかを育てたギャラリーオーナーの小山登美夫さんが来廊し「面白いから、ちょっと買ってくよ」って売れちゃったもんだから、辞められなくなっちゃいました(笑)。

野口:芸術活動とクライアントワークの割合はどのぐらいになっています?
木村:半々ってところですかね。村上隆さんみたいに芸術だけで食っていけたらいいけど、そうもいかない。絵を描き始めるとVFXの仕事がなくなってくるし、VFXをずっとやってると絵の方が離れていってしまう。MATIMという言葉で、引き寄せているだけなのかもしれない。これがクロスオーバーすると、なんかやっぱやってて良かったなと思うんです。
野口:最初のもとのりゆきさんから予備校の先生、師匠の教えからずっと変わりませんね。
木村:そうですね。なかなか人の話を聞かない俺に言い続けてくれたんですね(笑)。
野口:AIの脅威についてはどのように捉えていますか?
木村:僕らSFファンからすると、絶対に来る未来だったわけです。普通の人がちょっと触るだけで映像を作れるし、なんなら作らずに繋げるだけでそれっぽいものもできたりする。そのくらいポピュラーになったし、これは止めることができない。SFの物語のなかで職を奪われた側に今、僕はいるんだなと思うわけです。そこで、AIが学習元である僕らを食べさせてくれるのかがいつも悩みで、この問題は世界中が問われています。
野口:表現活動ってお金だけではないところもあるじゃないですか。そこって難しい問題だなと思っていて。食べていけるのが一番良いんでしょうけど……。
木村:旧来であれば技術を売る人がいて、それで食べていたけれども、産業革命しかり人は必ず効率の方に働くから、これまでの歴史の通り必ず職を奪われてきたわけです。こうして効率の頂点に立とうとしているときに、手作業である非効率なものが自分に返ってくるのが、やっぱり面白くて。この段ボールのオブジェも、CGでアセットを組めば効率的に作れると思うんですけど、パッと見で「これAIだね」って言われない、手作りの0.1%みたいなものがあると思うんですよ。この前、HIKAKINの『光』っていうミュージックビデオのときに段ボールで宇宙船を作ったんですけど、CGで作ろうと思うと3ヶ月位かかるものを2週間で作ってしまったんです。その監督も「こっちの方が面白い」と言ってきたから、やっぱりなんかあるのかなと。AIは受け入れなきゃいけないと思うようになれば、また描いたり作ったりするきっかけにできるんじゃないかなと、最近は思うようにしています。

木村俊幸
きむら としゆき 現代美術家/VFX監督/マットアーティスト。LOOPHOLE主催。
1969年東京都生まれ。日本大学芸術学部油絵科版画専攻中退。 学生時代、映像制作会社のアルバイトで合成作画の巨匠、石井義雄氏に出会い、師事。黒澤明、大林宣彦監督の作品の他、平成ゴジラシリーズ(94~95)、『写楽』(95)ハリウッド作品『SPAWN(97)『リング』(98)宇多田ヒカルのMV、サウンドノベルゲーム『弟切草-蘇生篇-』等、フリーランスのマットペインターとして、数々の特撮/VFXを手掛ける。 第1回岡本太郎現代芸術賞展(97)、新宿少年アート展(98)の後、VFX studio LOOPHOLE設立。ギャラリーを併設し、様々な展覧会を企画、若手作家の支援をしている。2013年には、20名の現代美術家が集い「最近の抽象」をテーマにした展覧会「ダイチュウショー」を府中市美術館企画室と共同企画し、自身も出品作家として参加。 画集MATIM -SAY YES- (東京都現代美術館/府中市美術館/金沢21世紀美術館:所蔵)や、OJUNとの共著 viny bon(東京都現代美術館/所蔵)、背景ビジュアル資料集1~14(監修/イラスト) スチームパンク東方研究所等(巻頭イラスト) 等。
VFXstudio LOOPHOLE;http://loophole.jp/
ARTSTATION:https://www.artstation.com/kimuratoshiyuki
TOSHIYUKI KIMURA ART WORK:https://kim9179.wixsite.com/loophole/home
MATIM:https://bijutsutecho.com/exhibitions/9978
■フィルモグラフィー
1990 映画『女バトルコップ』
1995 映画『写楽』
1996 TV『ウルトラマンティガ』
1997 映画『SPAWN』
1998 映画『リング』
2000 映画『フシギのたたりちゃん』
2001 ゲーム『弟切草-蘇生篇-』
2001 MV 宇多田ヒカル 『traveling』
2002 MV 宇多田ヒカル 『SAKURAドロップス』
2003 映画『ドラゴンヘッド』
2004 映画『CASSHERN』10回記念 AMD Award ’04/Best Visual Designer賞
2006 映画『最終兵器彼女』
2006 画ニメ『現代畸聞録 怪異物語』
2008 映画『リアル鬼ごっこ』
2009 映画『GOEMON』
2012 映画『妖怪人間ベム』
2013 映画『牙狼-GARO- ~蒼哭ノ魔竜~』
2016 映画『L-エル-」
2017 TV『宇宙戦隊キュウレンジャー』
2017 映画『ブルーハーツが聴こえる』VFX-JAPAN アワード2017 優秀賞
2018 映画『僕だけがいない街』
2020 MV HIKAKIN&SEIKIN 『光』
2023 TV『仮面ライダーガッチャード』
2025 TV『天久鷹央の推理カルテ』
Steam Dumn Board City:https://youtu.be/qNyGmCps-yI
Atack of the Nigiri Gripping Space Craft:https://youtu.be/g_o3UXFTlXA
Supported by Enhanced Endorphin
INTERVIEWER : 野口光一(東映アニメーション)
EDIT : 日詰明嘉
PHOTO : 弘田充
LOCATION :LOOPHOLE