トレンド&テクノロジー / 3DCGの未来~CGアニメとメディアリレーション~
第9回:平 正昭(株式会社トリロジー・フューチャースタジオ代表取締役)

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平 正昭 氏

日本におけるフルCGアニメーション制作への理解と振興を目指す本連載ではCGアニメと関係するさまざまなキーパーソンにお話をうかがっていく。今回は日本の黎明期のCGプロダクションのJCGLとトーヨーリンクス2社でマネジメントを務め、トリロジー・フューチャースタジオ代表の平 正昭に話を伺った。CG業界35年以上のキャリアのなかで見たビジネスやクリエイティブの要点を、さまざまなエピソードを交えつつ語ってくれた平氏。そしてさらなるCG業界人の“未来”についてのビジョンを示してくれた。

【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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JCGLとトーヨーリンクス、それぞれのカラーの違い

東映アニメーション/野口光一(以下、野口):CGプロダクションの参画以前、CM制作会社からの転職だとお聞きしましたが、その経緯を教えてください。当時、まだまだCGが産業として成立していない時期にどのようにしてCGに興味を持ちはじめたのでしょうか?

平 正昭(以下、平):僕は20代の頃、太陽企画というCM制作会社で企画や演出の仕事をしていました。その頃、電通には映像技術に明るい方がいらして、その方が海外のショーリールを見せてくれたんです。それを見た私は、もう海外ではCGを使ったCMがどんどん増えているなあと思っていました。その頃、CGといえばロバート・エイブル(※1)が作り出す煌びやかな映像だと伝播されていたのですが、それはモーションコントロールカメラによる多重撮影とオプチカルワークで、いわゆるCGIとは違ったんですね。でも、コンピュータが映像分野で新しいイメージを生み始めていることは感じました。Webも無い時代ですからね。数少ない技術書を読んだり、人づてに河口洋一郎さんを紹介してもらったりして情報収集をしていました。やがて、米国でSIGGRAPHというイベントがあることを知り、1982年のボストン大会に参加しました。会社からは「時間はやるが金は出さん」と言われ(笑)、悩んだ末に映像新聞主催のツアーに自費参加しました。N.Y.に移動した時には映画館で『TRON』を見て圧倒され、益々CGに傾倒していきました。

野口:いよいよCGの魅力に取りつかれていかれたわけですね。そこから実際にCGをお仕事の本業に据えられていくまでにはどんなきっかけがあったのでしょうか?

平:これは太陽企画での最後の仕事になるのですが、ある特撮モノの企画がまわってきて、自分の知る知識では無理だなと思っていたら、担当の方が「CGを使って作るのはどうでしょう? 日本にCG会社できたようですし行ってみませんか」と口にされ、皆で見学に行くことになりました。それが、渋谷南平台に設立されたJCGLでした。洋風のしゃれた社屋、未だ珍しかったオートロックドア、そこだけL.A気分でした(笑)。設立間もないこともあり、3D制作環境は私たちが望むイメージからは未だ遠い印象でしたが、デモをして頂いた映像はフイルムともビデオとも違うもので、プログラムをすることによって自分たちの絵筆が作れるということに魅力を感じました。その後、JCGLにはちょくちょく遊びに行くようになり、SIGGRAPHに参加していたことも好意的に見られたようで、ある日「JCGLに来ませんか?」と誘われ、僕も「仕事としてのCGも面白そうだ」と移籍することを決めました。それが’83年31歳の時です。

(※1)ロバート・エイブル……1937年〜2001年。映像クリエイター。
1971年にロバート・エイブル&アソシエイツを結成。映画『TRON』(1982、MAGIやデジタル・エフェクトも参加)や、缶詰食品普及協会のCM『Brilliance」(1985)の制作が有名である。1984年にはエイブル・イエージ・リサーチ社を設立。

野口:JCGLはどういう理由で平さんを誘われたのでしょう?

平:CM仕事もやっていきたいが、当時JCGLにいたアニメ畑のスタッフでは勝手が分からないので手伝ってほしいとのことでした。その頃ニーズの多かったCIやフライングロゴも、秒単位でCM感覚だしアニメの文法とも違いますからね。でも入社して最初にやったことはスケジュール表作りでした(笑)。トップも現場も全員ゼロベースですから試行錯誤の連続でした。

野口:JCGLはどんなシステムでしたか?

平:設立者の金子満(※2)さんは、フジテレビから独立して自身のアニメ企画会社MKを作られてアニメのプロデュースをするなか、当時の東京工業大学の安居院猛先生と中嶋正之先生(安居院・中嶋研究室)と自動中割の研究を進め、アニメーション制作のデジタル化を目指していました。経緯は承知していませんが、ニューヨーク工科大学(NYIT)と提携しシステムを導入していました。主なソフトは2Dが「Images」、「Tween」、「Tweep」で、それぞれペイント、中割、仕上げのソフトとZバッファアルゴリズムの3Dです。ハードはDEC社のミニコンVAX-11/780をメインとした構成でした。

(※2)金子満……1939年〜2018年。映像コンテンツプロデューサー。脚本家。フジテレビの制作部、映画部を経て、アメリカMGMスタジオで映画製作、ABCヴィデオセンターでCM制作に携わり、南カリフォルニア大学シネマスクールで学ぶ。帰国後フジテレビを経て、東京でアニメ企画・制作会社エムケイ、CGスタジオJCGL(Japan Computer Graphics Lab.)、ロサンゼルスでメトロライトスタジオを創設。『子鹿物語』、『SF新世紀レンズマン』をプロディースする。東京工科大学大学院教授、東京工科大学片柳研究所教授。映像産業振興機構(VIPO)理事、CG-ARTS理事。「日本のCGの父」と呼ばれる。

平 正昭 氏

野口:その結果が、1983年のTVアニメ『子鹿物語』ですが、どのあたりまでデジタル化できたのでしょうか?

平:自分は参加していないので見聞ですが、「RETAS STUDIO」の作りに近いものだったと思います。原画をスタイラスペンでなぞって直接書くか、紙の原画をスキャニングしてデジタル化する。そのデータを「Tween」で中割し動画にするのですが、これがなかなかで。「Tween」の問題よりもチョイスした作品性に拠る問題ですかね。アメリカのカートゥーン的な緩急メリハリのある動きと比べ、日本のアニメは心情をじっくりと表現する動きが多いですよね。『子鹿物語』は題材が児童文学ですから心情描写も多かったと思うのです。機械的な中割だとイメージが違ったのでしょう。結局、人の手による直しが多く、当初の思惑に反し生産性は低かったと思います。結局は第2話とオープニングの一部のみがCGで、あとは従来のセルアニメだったようです。

野口:その後、1984年の劇場アニメ『SF新世紀レンズマン』 では、JCGLが制作に参加し一部にCGが使われています。2D志向だったJCGLはどのようにして3DCGへと向かったのでしょうか?

平:『レンズマン』は金子さんにとって、作画と3DCGの融合で新しい活路を見出そうとした作品だったのではないかと思います。今では当たり前ですが先駆的な作品ですね。本音はフルデジタルでやりたかったでしょうが、予算やスケジュール面からマッドハウスさんのセルとJCGLのCG、ここにNYITも参加した日米合作座組でした。世界にファンも多いSF作品ですから、世界市場も視野に入れていたと思います。JCGLのスタートは確かに2Dでしたが、3D仕事も多くこなしていました。日本で最初のラスターグラフィックによるフルCGのCM「中部電力」(1983)(※3)も作りましたし、「つくば博」(1985)用映像も3Dで制作しています。ただ、NYITのはZバッファアルゴリズムのためアンチエイリアシングが汚いとか、透明体が表現できないなど表現上の制約が多すぎましたので、数年後にNYITからCCP(クランストン・スーリー・プロダクション、米オハイオ州にあったCGプロダクション)のソフトに切り替えました。スキャンライン・アルゴリズム(※4)のため、透明体やアンチエリアシングが可能になり、テクスチャやリフレクションマッピングでの表現力は高まりました。一方その頃、トーヨーリンクスはレイ・トレーシングとメタボールで衝撃的なデビューを果たし、東洋現像所品川ビデオセンター(当時、現IMAGICA Lab.)内にあった小高(金次)さん(※5)の部署もバンプマップで凹凸感を表現するなど、自社レンダラー競争は過熱していきました。「痒いところに手が届く」。これが自社ソフトの最大の魅力であり武器です。JCGL内部からも加藤敏明君(※6)らが中心となってオリジナルレンダラーの声が上がり、開発チームを作りました。その社内用のマニュアル作りを終え、僕はそこで一区切りをつけて、トーヨーリンクスに移りました。

(※3)日本初のワイヤーフレーム(ベクターグラフィック)によるCMとして、アニメーション・スタッフルーム制作の「ミノルタ複写機」(1982)がある。エバンス&サザランド(E&S)を使用。

(※4)スキャンライン・アルゴリズム……線を描いたり,ポリゴンのシェーディングや色塗りを行うときに,走査線ごとに処理すること。

(※5)小高金次……東洋現像所(1986年にIMAGICAに社名変更、現IMAGICA Lab.)を経て、CG・VFX制作会社ナブラ(現ライジン)を設立し代表を務め、多くのTVCMやWebのCGプロデュースを行う。

(※6)加藤敏明……レンダラー開発者。JCGL、ナムコ、ポリゴン・ピクチュアズ、スクウェアUSA、Rhythm&Hues Studios、DreamWorks Animationに勤務。福本隆司氏の記事を参照。
https://area.autodesk.jp/column/trend_tech/3dcg-animation-future/06/

平 正昭 氏

野口:移られた理由を聞いてもいいですか?

平:東洋現像所から会いたいとの電話がありまして。トーヨーリンクスをプロダクションとして機能させたいので、そのマネジメントをお願いできないか、というお話でした。未だJCGLに在籍している時でしたからそりゃ悩みましたよ。仕事で現像所にはよく出入りしていましたが、外から見るとC-CAM(モーションコントロールカメラ)、ポスプロ設備、デジタル技術など、JCGLでは持ちえない多くのリソースがあるにもかかわらずバラバラで、勿体ないなという印象がありました。それらを有機的につなぎあわせ活用したらいいのに、とお話をしたところ「まさにその通り。だけどやれる人がいないんです。平さんぜひやって下さい」と逆提案されまして、それを条件に移籍を決めました。移籍し色々な課題も見えてきて、やっぱり人が必要だなと考え、JCGLで一緒だった杉村克之さん(※7)に声をかけました。JCGLが閉鎖し多くのスタッフがナムコ(当時)に移っており、彼も同様でしたが拝み倒し来て頂くことになりました。

(※7)杉村克之……JCGL、ナムコ、リンクス、ビルドアップ(取締役プロデューサー)後、1997年12月にフレームワークス・エンターテインメントを設立(2021年5月解散)。フレームワークスでは、劇場版『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』(2001)、『ゴジラ FINAL WARS』(2006)、『カムイ外伝』(2009)、『アウトレイジ ビヨンド』(2012)、『幕末高校生』(2014)、『本能寺ホテル』(2017)、『いのちの停車場』(2021)などのVFX(CG)を担当した。
https://www.toei-anim.co.jp/sp/ee_cgmovie/visitingproduction/005.html

野口:そうまでして杉村さんを呼んだのにはどんな理由が?

平:彼の明るいキャラクター性ですね。現場を和ませる力って、誰しもが持っているわけではなくて、彼のそれは天性のものでしたから。JCGLとトーヨーリンクスでは成り立ちも違い会社のカラーも異なっていて、JCGLはどちらかというと学生サークル的なノリの集団。一方、トーヨーリンクスは阪大がバックグラウンドだったこともあってか、インテリジェンスな集団で、最初はちょっと取っつきにくい印象でした。プロダクション目指すなら、とにかく弾けないとと思いましてね、僕自身は苦手な方だから杉村くんに来てもらおうと(笑)。

野口:コミュニケーションという意味で、トーヨーリンクスではCGの現場を経験させる前に制作進行としてクライアントとコミュニケーションをとるような体制を作っていましたね。

平:いつの時代も現場とプロデュースサイドの意識の共有は難しい課題です。仕事の成り立ちや経緯、クライアントの意図や狙い、これらを知ると知らないとでは大違いですが、現場はその情報が少ない。事情を知らない現場が修正や変更を理不尽と受け止めるのは致し方ないことです。そこで僕自身のCM時代の制作進行経験から、新人教育のあり方を見直そうと、デザイナー職で採用したスタッフも直ぐには現場に入れず、しばらく制作進行としてプロデューサーに付けることにしました。さらにクライアントとの窓口も担ってもらいました。現場から抵抗はありましたが、仕事の流れが理解できコミュニケーション力も身に付いたと思います。今もスタッフ教育で悩まれている方にお勧めしています。

平 正昭 氏

CGアーティストが実力を発揮するために社内に必要な要素とは

野口:JCGLからトーヨーリンクス/リンクス(1988年3月に社名変更)に移られて平さんのお仕事にはどんな変化がありましたか?

平:最初は制作部長待遇のマネージャーで、後に役員になりましたが、現場のマネジメントやプロデュースをやりつつ経営も考えなければいけなくなりました。JCGLの時は作ることに軸足を置いていればよかったので数字を見ずに済んだのですが、役員となると財務諸表も踏まえた上での判断が必要になります。数字にアレルギーはありませんでしたが、CGプロダクション経営を教示頂ける輩はいませんから何もかも手探りです。「売上計画」、「採用計画」、「設備計画」の事業計画も立案できるようにはなりました。

野口:当時はCMで相当な売上があったり、博覧会イベントでもCGに対する需要が大きかったそうですね。

平:ええ。博覧会とCMが黎明期のCGを牽引したのは事実です。時間軸で言うと、’80年代の万国博や地方博ではCGが時代の寵児として迎えられ、多くのパビリオンでCGが用いられました。バブル期でもありましたから完全な追い風ですよね。博覧会ブームが一段落して’90年代からCMでCGを使う流れが起きます。表現力が向上したことでCM関係者が「使える」と判断した証ですね。今はあまり見られませんが、フルCGのCMも数多く作られています。制作費もバブルの恩恵で数千万単位。ただプレイヤーが多くなると当然、価格競争が起きます。リンクスもそれまで得たアドバンテージだけでは差別化しにくくなりました。その次に収益の柱になったのはコンシューマーゲームのハイエンドムービー。ほとんどのCGプロダクションが某タイトルで食べていたと言っても過言ではない時代です。ところがこれも終焉を迎えます。ハイエンドムービーが必ずしもゲームの売上に寄与しないことが分かると、メーカーも原点回帰というか、ゲーム本来の面白さ追求に予算をシフトし始めます。そこに沸いた救世主が遊技機。利幅は大きいのですが、クレジットされなくて会社も個人も証が示せないストレスは感じていましたね。そして法規制でタイトル数が激減し今に至る、といった流れでしょうか。TVアニメやVFX関係もありますが、屋台骨を支える大きな柱には化けていないと思います。これら受託仕事はノウハウは残るし会社としての実績にもなるのですが、いかんせん資産が残らない。人が辞めればノウハウも一緒に出てしまう。そのことに愕然としたんです。

野口:何が重要なのでしょうか?

平:受託仕事とは別の収益構造を作る必要性を痛感しました。リンクスは「制作部」と「事業部」の事業部制を採ってました。事業部では「パーソナルリンクス(通称パソリン)」(※8)を販売していました。金子さんはCG制作だけでは儲からない、プロダクションを維持できないことを早くに結論づけていたのではないかと思っています。モノを売らなければ、ということでJCGLでは「CGアーティスト」の後継で「イメージメーカー」(※9)や「ENERGE」というシステムを販売していました。パソリンも同じ狙いだったと思います。制作部の実績が商品化されているわけですから、相乗効果は大きかったです。総じて売上は好調で、何度か海外への社員旅行も実施しました。しかしトップ判断で事業部が独立することになりました。そうなると、制作部だけの独立採算みたいなものですから厳しいです。こちらも受託制作でない形の売るモノ=商品が必要と考えました。当時、IPという言葉はありませんでしたが、正に知財をどう持つか。社内で著作権の勉強会を開いたり企画チームを立ち上げたりと、いろいろアクションしましたが、根本問題としてIPと無縁で活動してきたプロダクションには、IPビジネスのレールを引ける人材もノウハウもありませんでした。その意味ではアニメスタジオは構造的にメディアとルートがあります。放送局や出版社といった出口が見えるなかでの企画は道筋をつけやすい。でも出口がないまま自分たちでIP作ろうとデザインしたりデモを作ったとしても、結局は埃をかぶっちゃうだけなんですよね。入口から出口までトータルでマネジメントできなければなりません。IPを所有できる会社との違いはそこですね。

市川孝次氏と池上由佳氏
市川孝次氏と池上由佳氏

(※8 映像ジャーナリスト 鍋潤太郎氏 所蔵の資料より)

パーソナルリンクス(通称パソリン)

(※8 出典:『日経CG』 1986年10月号)

イメージメーカー

(※9 出典:『日経CG』 1987年6月号)

野口:各社CGプロダクションがIPの取り組みをしているように感じますが、興味深い話ですね。

平:もう一つ重要なことは、IPを生み出すために必要なキャッシュジェネレートです。受託仕事は企業存続の根幹ですからきちんとやらねばなりません。ただ、請け仕事だけでは投資は限られます。資本政策の視点が必要です。IPOを目的に据えるということでなく、事業の発展ですね。自分がやりきれなかった部分ではあるのですが、現場で仕事を回すことと会社経営は別モノです。回してそこそこ収益が上がると、経営をしているという錯覚に陥りやすいんです。その意味での経営視点で運営しているプロダクションは多くはないと思うんですよね。

平 正昭 氏

野口:平さんから見て、たとえばどんな会社が上手く行っていると思いますか?

平:上手くいっているかどうかの内情は分かりませんが、今ですと、オレンジさんにはその強みを感じます。会社にお金を引き寄せるには、競合他社にはない強みが必要です。それが差別化にもなります。「あの会社しか出来ない」と思われることが最大の武器。私は井野元(英二)くんを昔から知っているということもあり申しますと、彼と組みたいと思っている会社はたくさんあるのではないでしょうか。あくまで私見ですが、オレンジは仕事やパートナーを選べる側に立てているように見えます。とても大きなアドバンテージですよね。パートナーシップを作るときにお互いが評価をし合えることは大事なことだと思います。リンクスにも特色を出してアドバンテージを保てた時期がありました。それはオリジナルレンダラーを作ってくれた技術者(IMAGICA)と、使いこなしてブランディングに貢献してくれたデザイナーの賜物です。クライアントがOKを出してもそこで止めない。彼らはそれ以上を提供していた。100のオーダーが120で返ってくれば、そりゃクライアントは喜びますよね。仕事のリピートも生まれます。そのこだわりをスタッフに聞いたことがあるのですが、彼らにはリーダーに認められたいとか、自分の力量を証明したいという内的なモチベーションがあったようです。

野口:つまり、アーティストを刺激するものが会社の内部に存在した。

平:アニメ業界には、この監督やアニメーターの下で作りたいという人に紐づくモチベーションの文化がありますよね。Aさんを押さえれば芋づる式にBさんやCさんまでも付いて来るというか。ゲーム業界でも同様のことを感じます。でも、CG業界はそこまで熱くなくて繋がりが希薄だなと感じています。アニメスタジオに来る人はアニメがやりたい、TV制作会社に来る人はTV番組を作りたいと、目的があって門を叩きます。でもCG会社に来る人は、CGをやりたい人ではあってもアニメが好きとは限らない。「お仕事だからアニメの仕事もやりますよ」って言っても、組んでみるとギャップがあったりスタンスの違いを感じる人もいる。オレンジの井野元さんにはアニメ愛がある。それが熱量になり周囲も同化する。コアとなるものがプロダクションや作品にないと、良いものを作る熱量になってはいかないと思います。私もモニター見てニヤニヤしながら作っているスタッフを見ると嬉しくなるわけですよ。そういう人はCGを楽しんでいます。

平 正昭 氏

野口:リンクスでもオリジナルアニメの構想はありましたか?

平:ありましたが形にはなりませんでした。収益単価が減る→仕事量増やす→労働環境悪化→退職されてノウハウが流出するという悪循環でした。これをどう断ち切るかが経営課題だったので、資産となるコンテンツ(自社IP)の保有は必然になりました。ただ、通常業務をやりつつその開発は難しい。ある年の事業計画では、制作ラインの半分を止め、そこで将来に向けたデモ制作やツール開発をやらせてくれとIMAGICAに無茶なプレゼンをした事もありました。まあ理解頂けませんでしたがね。とにかく色々探りました。フランスのファントムという会社が作った『GEOMETRIC FABLES(直訳:幾何学の寓話)』というCG作品を見て、自分の指向とは違うけど、こういう作品があるということも多くの人に知ってもらう啓蒙の一環と考え、国内でディストリビュートする権利を得ました。フジテレビの『ポンキッキーズ』で『おはなしKing』というタイトルで放送し、その後ビクターからビデオを販売しました。権利ビジネスの最初でしたね。また、自分が仲介役となり某キー局、某大手ゲーム会社、IMAGICAでの事業計画を立案したこともありました。Live Action Digitalの略で、「LADスタジオ構想」と名付けました。被写体、カメラ、あらゆる動きをデジタル化するスタジオです。リンクス入社の条件にした有機的結合の流れですね。ゲームに、VFX映画に、そしてIMAGICAはそのサービスをする計画でしたが、残念ながら形にならなかった。デジタルを核に、事業体をリンクさせることは避けられないと感じていました。LAD構想はちょっと早すぎたかもしれませんが、その一つが後のモーションキャプチャーの事業「桜亭」(※10)になりました。

(※10)IMAGICAのモーションキャプチャー桜亭スタジオ。その施設を利用した短編映画『櫻亭〜A Season of Cherry Blossoms〜』(1996)も制作された。木村卓氏の記事を参照。
http://www.toei-anim.co.jp/sp/ee_cgmovie/interview/002.html

野口:『桜亭』は平さんのその戦略から始まっていたんですね。その頃のモーションキャプチャーも良い収益になったのでは?

平:実際の運営は退職後ですが、ゲームでのニーズはずいぶんあったと思います。ただ運営するにあたりIMAGICAには外部へのサービス開始は半年後待ってくれとお願いしました。

野口:それはどうしてでしょうか?

平:エディターを作りたかったんです。モーキャプはそこが命だと思ったんですね。お金を出せば誰でも購入できてサービスを提供することはできますが、当時はいいエディットツールが無くて。半年で開発できれば差別化もできると踏んで、IMAGICAの技術者なら作れるだろうと考えたんです。あと、人型キャラのキャプチャーは当たり前になる、ならば人型でないキャラとの組み合わせは意外性が出るのではと、椅子で試したことがありましたが、これは面白かったですね。そしてアニメーターとの協業を模索したいと考えリンクスを離れ、’98年にSEGAと共同でトリロジーを設立しました。

平 正昭 氏

CG業界でも課題となるリタイア世代の知見活用方法

野口:トリロジーはトップクリエイターである森本晃司さんと『ハッスル!!とき玉くん』(1998)(※11)を制作したり、森本さんとマイケル・アリアスさんを擁し、『鉄コン筋クリート』(※12)のフルCGパイロット映像を制作されましたが、このときの様子を教えて下さい。

(※11)『ハッスル!!とき玉くん』……文化庁メディア芸術祭 第2回デジタルアート(ノンインタラクティブ)部門大賞を受賞した。

(※12)『鉄コン筋クリート』……マンガ家・松本大洋の代表作。1993年発表。本文のパイロット版とは別に2006年にSTUDIO 4℃がアニメーション映画化した(マイケル・アリアス監督)。

平:リンクスにいた時分、当時のSEGAの動きがとても刺激的に映りました。『バーチャファイター』をローンチし、東京ムービー新社(現トムス・エンタテインメント)をグループ傘下にしていました。中山さん(隼雄、当時社長)は次が見えているんだな、と。つまりゲームがドット絵からポリゴンになればアニメーターは絶対必要になる。ペンからマウスに持ち替えるくらいの発想していたのではないかと思います。アニメとゲームの文化の違いから、思うように融合しなかったことは聞きましたがそれも早すぎたのでしょうね。その頃に水口(哲也)さんと出会い、キャラクターアニメーションに特化したCGプロダクション構想をふったところ、中山さんとの席を設けてくれまして、その場ですぐに作れとなり(笑)。判断の早さに驚きました。キャラクターアニメに特化するということは、アニメーターは当たり前ですが毎日キャラを動かすのが仕事となります。面接で「毎日キャラクターを動かす仕事ですよ。それでもやりますか?」と問うと、皆唸るわけです。アニメ業界のアニメーターはアニメが大好きだから、毎日同じキャラをひたすら描き、命を吹き込み続けます。そういう愛やエネルギーがないとできない。アニメのマーケットに参入するには、「みんな同じベクトルでいくぞ」という気概を持って作っていかないとなかなか難しいと感じました。

野口:森本さんを据えてもなお難しかった?

平:会社を取り巻く様々なことが要因でしたね。いろいろ難かしかったし、自分も甘かったと思う。ただ、何年か後にSEGAの方から「平たちがやりたかったことは今なら理解できる、早すぎたなあ」って言われたときは少し報われたというか。まあ何事も最初にやるのは大変です。

平 正昭 氏

野口:その後、トリロジー・フューチャースタジオに変わりましたが、印象的だったお仕事は?

平:『のだめカンタービレ』(※13)ですかね。コミックスを読んでいたのでスタッフから報告受けた時は「やろう!」と即答しました。第1期はスタッフに任せていたのですが、ピアノの演奏シーンをロトスコープ(※14)で作っていたのを見て、さすがにこれは非生産的だなと感じていて、第2期の相談頂いた時はオーケストラも動かしたいとの意向もあり、ピアノもオケも技術的に解決できるはずだと、自分が動きました。毎週放送ですから効率も考えざるを得ません。ネットで調べていたら、ピアノ伴奏の運指を視覚的に表現するツールを開発している大学生の論文に行き着いて、直接問い合わせたんです。最初は胡散臭がられていたのに、『のだめ』の話を出したら急に話がスムーズに進んで(笑)。産学共同はフジテレビも大歓迎でした。MIDI音源からCGの指を動かすアプローチも検討して頂いたのですが、指の表情までは無理だということになり、指にマーカーを付けてキャプチャーしました。でも実際に使う楽曲とは絶対ズレますので、そのズレを自動的に補正するツールも作って頂きました。『のだめ』の後にピアノ演奏CGがいくつかありましたが、『のだめ』が一番よく出来てるなと自賛してます(笑)。主人公の千秋の指揮は、その頃に開発をしていた「MoCaToon(モカトゥーン)」を使用しました。これはOLMデジタルの安生(健一)さんや、早稲田大学の森嶋繁生先生たちとのユニットの中に入らせてもらって開発したツールです。キャプチャーは量産に適していますが、アニメのキャラに充てるには動きがリアルすぎる。それをいかにリミテッドアニメ風にエディットするかが開発目的でした。間引きはみなさん経験されたことがあると思いますが、どうやっても属性は消えないんですね。やっぱり人の動きになってしまう。そこで、運動エネルギーを分析してアニメの原画(キーフレーム)になるものを抽出し、直線補間するというツールです。現場は負荷が減り、オケも動き、大学は論文と、良いこと尽めのプロジェクトだったと思います。(※15)。産学共同とまではいかなくとも、新しい技術と現場の連携から作り上げることができるものはまだまだあるぞと実感した経験でしたね。

(※13)『のだめカンタービレ』……二ノ宮知子によるマンガ。2001〜2010年「Kiss」(講談社)にて連載。音楽大学を舞台とし、個性豊かなキャラクターとドラマが大人気となる。TVアニメは2007〜10年にかけて合計45話が放送された。

(※14)ロトスコープ……実写を撮影し、その動きをなぞって描くことでアニメーションを制作する方法。マックス・フライシャーが考案し、『インク壺の外へ』(1919年)で実用化された。近年の日本のアニメ作品では『惡の華』、『花とアリス殺人事件』、『音楽』などで用いられた。

(※15)ピアノ演奏コンピュータグラフィクス制作技術
http://www.orsj.or.jp/archive2/or58-03/or58_3_149.pdf

野口:’80年代から’90年代は大型映像制作や、最新映像としてCGが使われていた時代だったと感じます。IMAGICAのCMのコピーでもあった「見たことないもの見せてあげたい」が、まさにCG表現そのものだったと思います。それが、だんだんCG映像が裏方になってきたようにも感じます。現在、再度「CGの可視化技術」をアピールが必要ではないか、と思いましたが、いかがでしょうか?

平:言霊みたいになってしまうかもしれませんが、「可視化技術」というワードは自分にとって「コンピューター・グラフィックス」よりも響く言葉です。「可視化する技術でエンターテインメントする」という捉え方によって、より幅の広さを持たせることができる感じがします。黎明期にCG啓蒙のためよく資料を作りましたが、そこに書いたCGの特徴は「見えないものが見える」「見えにくものが見える」「ないものを見せる」でした。正に可視化ですね。僕がやられたなぁと思ったのは、NHKで放送された『ロストアニマルズ』(1990)。イラスト本『ザ・ロストアニマルズ―絶滅した動物たち』が元になっていて、僕も大好きな本でした。古代の生き物がリアルに復元され動いている、これこそ可視化だと。その3年後に『ジュラシックパーク』が公開されました。「見たことないもの見せてあげたい」は、東洋現像所からIMAGICAに社名変更するときにCGで作ったCMにコピーライターが書いてくれたコピーなんです。それ以来自分のモノ作りのテーマにもなっているのですが、このマインドって、CG屋さんは絶対に持っていなければいけないものだと思っています。

野口:当時、IMAGICAのCMはよく見た記憶があります。

平:見たことないものを見せるって、ものすごいエネルギーがいるけど、生み出せる環境にいることを楽しまないと。受注仕事で感じたことですが、CGを知らない人のアイデアの方が面白いことが多いんです。CG側の人のアイディアは、技術の範囲内でできることを考えるから意外性がない。’80年、’90年代の映像を見ると、とにかくアイディアが面白いんですよ。表現力は今の方が圧倒的に豊かですが、アイデアは源泉だから。可視化が根っこにあるプロダクションは面白いはずだしスタッフも楽しんでいると思います。アニメやゲーム、VFXだけがCGではないことを若い人に示すことも僕らの仕事です。『映像研には手を出すな!』のオープニング曲(『Easy Breezy』)のPV(※16)なんて、スタッフが遊んで楽しんでるなぁと思っちゃう。ルーチン化しがちなCGプロダクションからは生まれにくいのではと思ったりします。

(※16)https://youtu.be/76sNmqMzUuI

野口:2020年代になると、先頭を走って黎明期から活躍しておられるCGデザイナー、CGアーティスト、CG監督が定年を迎える時代になりました。CGが生涯の仕事として従事できる環境になりました。’80年代からすると現在はCG産業としては安定期でしょうか?

平:CG第一世代が今50代後半から60代。会社員なら定年を迎える年齢です。様々な想いはあるでしょうが、業界にどう恩返しができるか、そんなことを考え始める年齢です。さっきフランスのファントムの話をしましたが、最初にファントムを訪れた時に理想形を見たんです。おじいちゃん・おばあちゃんが画を描いている。その傍らで若い人たちがCGを作っている。年代を超え、お互いに教え合っている。片やアナログを、方やデジタルを。「これだ!」と。こういう環境を日本でも作らないとと思ったんです。僕らは最初のデジタルツールユーザーでもあるわけです。同じ年代と比べてもITリテラシーもそこそこあるし、体力的にもまだまだ仕事もできる。最新技術を教えることは難しいが積み重ねた多くのものがある。教えたい、伝えたい、残したい、みんなそういうモードに入ってきていると思うのね。そんな場や器が作れればと数年前から夢想しています(笑)。

平 正昭 氏

野口:読者の反応を見るとCGの黎明期の話に興味を持っている人たちがいるように感じます。IMAGICAやポリゴン・ピクチュアズのプログラマーだった方々が定年を迎えられたと聞いたときに、ようやくこの業界もそこまで成熟してきたのかなと感じました。

平:と同時に、プロダクションのDNAをいかに継承させるかという課題もありますね。第一世代のDNAってちょっと特殊かなと思ってるから。
技術と表現という両輪を直に体現してるので、単なるツールという位置づけにない。それこそ「可視化」することにこだわってきた人種がトップだったわけで、伝承させたいのか、新しい視点で再ビルドしてもらうのか、あるいはクローズするのか。杉村さんやルーデンスの増尾(隆幸)さん(次号掲載)の動きをみるといろいろ考えてしまいます。

野口:前の種を持っている人のところへ行って相談できるようなセミナーとか場所を作っておいたほうが良いと思います。

平:シニア世代は個人であれ法人であれ仕事を獲得することが難しくなってきます。お付き合いしてくれていたクライアントさんも同じように歳を重ね、管理職になり現場を離れます。部下は自分で開拓した人脈やネットワークで仕事をしたいと思うでしょう。その循環は必然だから逆らってもしょうがない。僕らCG第一世代の次のミッションは、恩返しする場作りかなと。デジタルコンテンツの一つの課題として考えていく必要性を感じています。

JCGL

作品名 スタッフ 主な取り組み、受賞など
1982 TVアニメ『子鹿物語』 企画:伊藤章彦、金子満
監督:おおすみ正秋
第2話とオープニングの一部のみCG映像
1983 CM「中部電力」 日本初のラスターグラフィックによるフルCGのCM
1983 ソニー CI CGD:細田伸明 CIロゴアニメブームのきっかけとなった
1984 劇場アニメ『SF新世紀レンズマン』 企画:伊藤章彦、金子満
監督:広川和之、川尻善昭
SFX-SV:八巻磐、大口孝之
宇宙の戦闘シーンなどをCGで表現した
1984 TBS『中村敦夫の地球発22時』 高野 孟「世界地図の読み方」を図式、可視化
1985 つくば博 『アレイの鏡』 原作・総監督:松本零士 当時としては驚異の1分以上のワンカットカメラワーク
1985 後楽園フライングキャビンUFO 監督;増田修 遊園地施設として国内初のライド映像(16mm上映)
1985 松下電器企業CM『ガリレオ篇』 監督:岩本力 ピサの斜塔から落とした鉄球が次々メタモルする
ACC賞受賞

トーヨーリンクス/リンクス

作品名 スタッフ 主な取り組み、受賞など
1988 瀬戸大橋博 『タダノ・スペースポート』 監督&CGD:福本隆司 国内博初のライド映像
1988 東京ガス企業CM D:浅川順 フォロンの絵をNPR(ノンフォトリアリスティックレンダリング)のCGで表現
1989 横浜博/三菱未来館 『IMAGINATION』 監督:岩本力
CGD:平正昭
フルカラー3D立体CG映像(70mm映写機2台、ポラロイド方式)
AVAグランプリ'89博展映像部門 博覧会映像賞受賞
1990/9/12-9/17 吉祥寺パルコにてリンクス展「CGファクトリー」を開催 CG映像上映やグッズ展、CGアニメーション体験コーナーを設置
1990 国際花と緑の博物館/郵政省・ NTT・KDD共同館 『THE NATURE 〜いきものたちの詩〜』 監督:浅川順
CGD:秋山貴彦
フランス国立農業研究開発センターと共同開発、1年から100年までのけやきの生成をアニメート
SIGGRAPH '90 Electronic Theater セレクト
1991 フジタVENTE『IGT (Inter Galactic Travel)』 企画:平正昭
監督&CGD:秋山貴彦
P:杉村克之
ライド映像によるアトラクション
SIGGRAPH '93 Electronic Theater セレクト
1991 CG水族館 -名古屋港水族館- P:杉村克之、CGD:中野英樹 ハーフミラーに投影する水槽型スクリーン
1991 伊豆大島火山博物館『マグマツワーズ』 IMAGICA事業開発部(当時) 館内で上映されたライド型映像
1991 カプコン CI P:浅野秀二、D:木村卓
1992 ハウステンボス/エッシャー館&宇宙帆船館『エッシャー/永遠の滝伝説』 IMAGICA事業開発部(当時) エッシャーの”だまし絵“をCG映像化。世界初の実写とCG合成による立体映像(70mm映写機2台、ポラロイド方式)
1994 実写映画『河童』 監督:石井竜也
SFX-SV:秋山貴彦、SFX-P: 杉村克之
CGキャラクターによるVFX
IMAGICAと35mmフィルムスキャナーを開発し実写とのデジタルコンポジット
1996 PSゲーム『GUNDAM』オープニング CGD:瀬下寛之 オープニングムービー

トリロジー/トリロジー・フューチャースタジオ

作品名 スタッフ 主な取り組み、受賞など
1998 短編『ハッスル!!とき玉くん』 監督:森本晃司 第2回文化庁メディア芸術祭デジタルアート部門大賞受賞
第13回マルチメディアグランプリ CG部門エンターテインメント賞受賞
1999 『鉄コン筋クリート/3DCGパイロット版』 監督:森本晃司 第3回文化庁メディア芸術祭デジタルアート部門優秀賞受賞
第14回マルチメディアグランプリ CG部門最優秀賞
1999-2001 短編シリーズ『PiNMeN』 監督:池田爆発郎 報道バラエティ番組「スマステーション」(テレビ朝日系列)内で放送されたことにより人気に火がついた、短編デジタルアニメーションシリーズ
2000 DC『バイオハザード CODE:Veronica』 オープニングと劇中CGムービー制作
2000-2008 TV番組『えいごリアン』シリーズ キャラクター開発とアニメ制作
2002 TVアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』 タチコマのCGアニメ制作
2003 PS2『DRAG-ON DRAGOON』 CGD:林田宏之 オープニングムービー制作
2007-2010 TVアニメ『のだめカンタービレ』 監督:カサヰケンイチ
   今千秋(2,3期)
ピアノ演奏自動化を関西学院大学と協業、
指揮には豊橋技術科学大学と協業したMoCaToon(モカトゥーン)」を使用

※『コマーシャル・フォト別冊(シグ)』、『CHROMA』及び独自調査により主な作品をリストアップ

平 正昭 氏

平 正昭

1952年生まれ。株式会社トリロジー・フューチャースタジオ(TFS)代表取締役。
太陽企画でCM演出を手掛けた後、1983年JCGLに入社。制作部長を務める。1987年トーヨーリンクス入社。制作部長・専務取締役を務める。1996年退社後、トリロジーを設立(2002年にTFSに変更)。
博覧会(瀬戸大橋博、横浜博、花博)や展示用の大型CG映像のプロデュース、ディレクションを務める。『ハッスル!!とき玉くん』(1998)『鉄コン筋クリート(パイロット版)』(1999)は文化庁メディア芸術祭と通産省マルチメディアグランプリをそれぞれ受賞。その他オリジナルアニメーション『PiNMeN』やNHKの『えいごリアン』のキャラクター開発とアニメ制作などを手掛ける。

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INTERVIEWER : 野口光一(東映アニメーション)
EDIT : 日詰明嘉
PHOTO : 弘田充
LOCATION : 東映アニメーション

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